契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
「悪いな。オレはまだやることが残っている。代わりに今晩はどこかへ連れて行くよ」

 鈴音は自分の元に歩み寄ってくる忍を見つめ、戸惑った声で返した。

「お忙しいんですよね……? 私に気遣っていただかなくても結構ですから」

 ふたりきりなのはいつものこと。それなのに、鈴音はやけに緊張し、胸が高鳴る。
 忍との距離が少し近くなっただけなのに、それだけでまともに顔を見れなくなっている。

 不自然に思われないだろうかと不安になりつつも、やっぱり間近にいる忍を見上げることができなくて視線を泳がせていた。

 すると、忍は不意に鈴音の肩を抱き寄せ、こめかみに口を寄せた。

「大丈夫だ。今日の礼も兼ねてそうしたい。もともと今夜は早く帰宅しようとしていた。定時で上がるつもりでいるから」

 柳多もいなくなったはずなのに、声のトーンを落として言われると変にドキドキしてしまう。
 鈴音は心臓が騒いでいることに気付かれないよう、平静を装って答える。

「そう、ですか……。でしたら、私この近くで買い物でもしています」

 さっき軽く触れた手とは比べ物にならない。忍に手を置かれた肩が、じんとするほど熱く感じる。
 それに、耳の近くで聞こえた低い声が未だに頬を火照らせる。

 すでに忍はデスクに戻ったというのに、鈴音は身動きが取れないままだ。
 そこに助け船がきた。柳多が現れ、ほっとする。

「お待たせいたしました。では、行きましょうか」
「あ、はい。それじゃあ、私はこれで……」

 ようやく動けた鈴音は、忍に会釈をして踵を返そうとした。

 背を向けた瞬間、さっき惑わされた艶やかな声で「鈴音」とよびとめられる。
 鈴音の胸はさらに早鐘を打ち、これ以上は平然とした顔でいられなくなりそうだった。

 なんとか顔を半分振り向かせると、忍がひとこと言う。

「あとで連絡する」

 些細な約束なのに、まるで心を全部占めるほど忍のことでいっぱいになる。
 鈴音は無言で一度頷き、柳多と一緒に副社長室を後にした。
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