契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
「まあ、事情がある結婚だから、わざわざ鈴音を行かせなくてもいいかと思って柳多に頼んだんだ」

 ようやく動き出したエレベーターが五階に着いて、ドアが開く。誰もいないエレベーターに忍が先に足を乗せた。
 鈴音は忍が言ったことに軽くショックを受ける。

 べつに忍はおかしなことを言っていない。むしろ、彼らしい考え方だと納得できる。
 それなのに、改めて形式上の関係だと思うと、得も言われぬ悲しさが過った。

 しかし、鈴音はすぐに佐々原に宣言した自分の気持ちを呼び起こす。

 ――『これは、私の意思です。彼と一緒に居たいんです』

 あのとき言ったことは本心で、それを他人に公言したことを後悔なんかしていない。

 鈴音が不意に振り返り、数分前のことを思い返していると、突然力強く腕を引っ張られた。
 吃驚し、目を剥いて顔を上げる。鈴音のつぶらな瞳には、精悍な顔つきの忍が映る。

「これでもうオレの妻なんだから、よそ見するな」

 ドアが閉まり、エレベーターが下降する中、ふたりは見つめ合う。
 鈴音は忍に腕を掴まれていることすらも気にならないくらい、今のセリフに翻弄されている。

 なぜ、こんなにも心臓が暴れまわり、忍から目が離せないのか。
 出会った頃なら、あんな傲慢にも似た言葉を言われれば嫌悪感を抱いていただろう。

 自分の変化に困惑することも、少しずつなくなっていくのがわかる。
 代わりに、彼の一挙一動に心が震え、心地いい動悸に戸惑う回数が増えていく。

 落ち着かない気持ちでいるのは、鈴音だけではなかった。
 鈴音にジッと見つめられ、忍も心が揺さぶられる。

 これ以上、鈴音の愛らしい瞳を見続けているとどうにかなりそうで、忍はふいっと目線を逸らした。
 鈴音の口元を見て、平静を装う。

「ところで、その口紅は昼間会ったときと違うよな? メイクもいつもと違う」
「あっ。さっき、ローレンスの販売員の方が選んでくれて、メイクも……」

 忍が話題を変えてくれたおかげで、鈴音は術が解けたように柔らかな表情を浮かべた。

 自分の顔は鏡がないと見られない。それに加え、つい今しがた色々とあって、メイクをしてもらったことをすっかり忘れていた。
 鈴音は恥ずかしそうに俯く。

 いつもと違うメイクをして、誰かに見てもらってドキドキするなんて初めてかもしれない。

 すると、忍が鈴音の顎に指を添え、クイと軽く上向きにさせる。
 再び視線を絡ませると、余計に心臓が早鐘を打つ。

「うちの社員はさすがだな。鈴音に似合っている」

 まじまじと見た直後、忍は僅かに口角を上げ、微笑んだ。
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