契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
「ど……どうして……?」

 仕事が終わったとは思えない。毎日多忙にしている忍を見ていればそのくらいわかる。

 鈴音が驚倒するあまり言葉を失っていると、忍は鈴音のそばへやってくる。
 やおらスーツ姿の忍を見上げた途端、彼は鈴音の頬を撫で、耳元で囁くように言った。

「オレの為にしてくれていることだ。出来ることくらいする」

 肌を滑り落ちていく指の感覚や、耳輪に感じる吐息が鼓動を誘う。

 突然現れただけでもひどく動揺しているのに、間髪容れず至近距離に来たものだから頭の中はパニックだ。
 鈴音は見開いた目を忍に向ける。忍はそんなことも知らず、僅かに口角を上げた。

「最低限の義務だろう?」

 声のトーンを落としてさらに言った。

「あっ……ええと、そのほかにも数点ドレスをお持ちいたしますね」

 忍の言葉はスタッフには届いていない。ただふたりが愛を囁いているとでも感じ、頬を赤らめてそそくさと退室する。

 鈴音は密室で忍とふたりきりになったことが、うれしいような落ち着かないような気持ちだ。
 スタッフが出ていったドアを見ていると、忍が一歩下がって鈴音の全身を眺める。

「そのドレスは鈴音が選んだのか?」
「え? いえ。私は、もうどれがいいのかもわかりませんし、お任せで」
「そうだと思った」

 鈴音がドレスを摘まみ上げて言うことに、忍は目を細めて笑った。

 こんな格好をし、ふたりきりでいて、彼が自然な笑顔を見せる。
 鈴音はまるで、本物の新郎新婦にでもなった気分で忍を見つめた。

「どうした?」

 忍はきょとんとして鈴音を見つめ返す。

 彼のあっさりした態度に、鈴音は現実を思い出し、冷静さを取り戻そうとゆっくり瞼を伏せる。
『なんでもない』と伝えるために、静かに首を横に振る。

 忍がつい今しがた口にした、『義務』という冷たい単語を敢えて頭の中で反芻する。

 不要であるすべての感情にふたをするために。
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