契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
鈴音は星羅のように怒りのまま睨みつけることもせず、ただ感情が読み取れない顔をして星羅を見つめる。
そして、怯える目をする星羅へ静かに微笑みを向けた。

星羅はその笑顔に背筋を震わせる。
その場にいられなくなって、走り去ってしまった。

星羅がいなくなっても、鈴音は視線で追うことすらしない。
微動だにしない鈴音を柳多はなにか言いたげな瞳を向けていた。

鈴音は柳多の視線にも気づいていたが、特に問い掛けることもせずエレベーターのボタンに手を伸ばす。
すぐに扉が開き、鈴音は先に乗り込んだ。柳多も後に続き、鈴音が扉を閉める。

下降し始めるエレベーター内で、鈴音が不意に零した。

「彼の前から姿を消せば、これまでのことはなにもかも、なかったことになる」

柳多は正面を見たままの鈴音を凝視する。

「……気づいてしまいましたか」
「そろそろ私にバレることくらい、柳多さんは想定済だったんでしょう」

鈴音はクスリと笑い、階数表示ランプの『1』が点灯したのを確認してエレベーターを降りた。
そして振り返ることもせずに出口へ向かう。

柳多は姿勢がよく美しい鈴音の後ろ姿を見つめる。
突如足を止めた鈴音が、背中越しにぽつりと言った。

「けれど、あの傷や指輪を見れば、きっと忍さんは私を思い出しちゃいますよね」

思わず小さく笑いを零し、柔らかく目を細める。
視線を落とした拍子に自分の手が視界に映り込み、そっと左手を動かした。

薬指にはまだ新しい結婚指輪。たった数日しかつけていないのに、もう自分の一部のようになっている。

慣れというものは怖い。

鈴音は改めて感じ、指輪を覆い隠すように右手を乗せた。そして、続ける。

「それがうれしいと思うなんて……私って怖い女です」

柳多から微かに見えた鈴音の横顔は、口元に笑みを浮かべていた。
話をする声も口調も落ち着いていて、一見なんでもないことのように思えた。

しかし、柳多の目に映った鈴音の背中は泣いているようにしか見えない。
鈴音は再び歩き出し、数メートル進んだところでようやく柳多と向き合う。

「ありがとうございます。ここでいいですから。失礼します」

たおやかに礼をし、黒髪を靡かせ去っていく。

鈴音が外に出た直後、追いかけてきた柳多が鈴音の腕を掴んだ。
< 225 / 249 >

この作品をシェア

pagetop