契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました

「お疲れ様でーす」

そう言って、更衣室から足早に帰って行くスタッフを見送る。

仲が悪いわけではないが、込み入った話ができるほどの間柄でもなく、鈴音はタイミングを掴めずに結局言い出せずに終わってしまったのだ。

頼りになる相手と言えば、梨々花だが、あいにく今日は、年に何度かの大がかりな残業があることを聞いていた。

(二、三時間かかるって言ってた。さすがにそこまで待つのも……)

迷った結果、人通りが多い今の時間帯に帰ったほうがいいかもしれないと、裏口へ足を向けた。

(もし、あの人がいたとしても、話しかけられるくらいだろうし、いざとなったら周りに人もいるし)

今日逃げたところで、明日以降ずっと逃げ続けるのは大変だ。それなら、毅然とした態度で今日こそ追い払おうと心を決めた。

一度大きく息を吸い、恐る恐る一歩踏み出す。きょろきょろと辺りを見回すも、山内の姿は見えない。

(この間は、出てすぐに現れたのに)

不信に思いながらも、歩き進めるにつれ、慢心するようになった。

三つ目の曲がり角を曲がった矢先、突然手首を掴まれる。ひと気のない路地に引っ張られ、狼狽える。
声にならない叫びと共に、目に映る山内に恐怖を感じた。

「ちょっ……離し」
「お疲れ様。お勧めのお店があるんだ。こっちだよ」
「なに言って……! 私は行きません!」

渾身の力で山内の手を振りほどき、身構えて睨みつける。

「どうして? 約束したよね?」
「や、約束?」
「さっき、『あとで答えを聞かせて』って。『待ってるから』って言ったじゃない」

(それは、そっちが勝手に……!)

自分の手が震えていることに気づく。けれど、ここで泣き出すわけにはいかない。

鈴音は、外に出てからずっと握っていた携帯のロックをこっそりと解除する。

「私は、あなたと食事をしたりはしません!」
「あの男にそう言えって言われてるんだね。鈴音ちゃんは、あいつに洗脳されてるだけなんだ」

山内を見ると、本気で話をしている目で、鈴音は戦慄が走る。
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