契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
鈴音は更衣室を出て、敢えて遠くの化粧室へ入る。鏡の前に立って、ポーチを出した。

まるでこれから戦いにでも行くような心持ちだ。その証拠に、鏡の中の自分は今まで着たこともない高価な服を纏っているというのに、強張った顔をして睨みつけるような目をしている。

ポーチから取り出したのは、忍からもらったコスメ。約束通り、それらを使って化粧を直す。

(ダメだ。やっぱり違和感しかない)

一応鏡で確認はしたが、たった一度だけ。あとは、もう似合わない自分の顔を直視できなくて、そそくさと化粧室を出た。

周りに誰もいないかをこそこそと確認し、足早に裏口へ向かう。外に出ると、正面には存在感のある車が停車していた。
 鈴音は慌てて駆け寄り、助手席のドアを遠慮がちに開ける。

「すっ、すみません! お待たせしてしまって……」

ドアの隙間から顔を見せて謝ると、忍は無表情のまま「いいから乗れ」とだけ口にした。鈴音は言われるがまま、車に乗り込む。
すると、珍しいことに、忍は車を出さずにジッと鈴音を見つめた。

「あ、あの……」

反応に困る鈴音が声を漏らす。忍はそれに対し、なにを言うわけでもなく、フイッと顔をフロントガラスへ向けてアクセルを踏んだ。

(い、今の視線はどういう意味だったんだろう)

不安しかない鈴音は、些細なことでも引っかかってしまう。膝の上の両手を無意識に握りしめる。 そんなとき、忍が鈴音に問いかけた。

「緊張してるか?」

鈴音は、忍の横顔を見て、少し間を置いてぽつりと答える。

「は、はい。すごく……」
「言っても、小一時間だ。それに、オレがいる。だから、いつまでもそんなに不安そうな顔をするな」

忍は赤信号を前に減速しながら、ブレーキを踏むタイミングで鈴音を見た。忍の言葉に鈴音は迂闊にも頬を赤らめた。

(この人は、どうしてこんなに人を魅了するんだろう)

うっかり特別な感情があると錯覚してしまうほど、忍からはいつも頼れる男を感じる。思い起こせば、初めて山内から助けてもらったときも、『彼なら』という深層心理が働いたのかもしれない。
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