契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
エレベーターで上階へ向かい、もうすぐ到着するとき。

「ここから先は、オレのことを名前で呼べよ」

忍が鈴音を見下ろして言う。鈴音は驚いた顔を見せ、ワンテンポ遅れて頷いた。

(そうか。呼び方とか、まったく考えていなかった。結婚する予定の人を苗字で呼ぶのはやっぱり不自然だよね)

今日まで、この日をうまく乗り切れるのかという心配だけで、具体的にどうすべきかを考えていなかった。
鈴音はいまさら深く反省する。

エレベーターが短く音を上げ、扉が開いた。すぐにレストランの入口が目に留まる。

(名前……『忍さん』って呼べばいいんだよね。忍さん。忍さん……)

頭の中で呼び方を繰り返して練習している間に、忍がウエイターと話をしていた。
ウエイターが笑顔で大きく一度頷き、ふたりを席へ案内する。店内で一番眺めのいい窓側の席には〝Reserved〟と書かれた予約を示すプレートが置いてあった。

席は三つ。そこで、鈴音がふと疑問に思った。

「あの……今日は、お母様は?」

結婚の話を前提とした顔合わせのようなものなのだから、母親もいなければおかしいんじゃないかと気づいた。
忍は表情を変えず、ひとこと返す。

「来ないよ」
「そう、なんですか」

確かに、忍の口から母親について触れられたこともなかった。鈴音は、『でも』と引っかかりを覚えたが、余計な詮索をするような真似はできない。

すると、忍が上座に位置する椅子を見つめ、ぽつりと呟いた。

「ウチの父と母は、仕事関係くらいでしか一緒に出かけないから」
「え? それって」
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