徹生の部屋
ほかの店舗スタッフに教えられたベッド売り場に向かう。近づくにつれ、急いでいたはずの足が鈍った。
展示品を眺めている、スラリとした後ろ姿にイヤというほど見覚えがある。

「て……桜王寺さま」

強ばる私の声に反応して振り向いた彼は、軽く片手を上げた。

「大変お待たせいたしました。いらっしゃいませ」

営業スマイルのあとに、スーツの袖を引いて小声になる。

「どうして仕事場まで来るんですか!?」

「せっかく空き時間を使って婚約者に会いに来たというのに、ずいぶんとつれないな。第一、私的な連絡先を教えてもらっていないんだ。ここか自宅へ押しかけるしかないだろうが」

お互いに、私用の電話番号もメールアドレスも、なにひとつ交換していないといまさら思い至る。
果たしてこんな状態で、婚約者を名乗ってもいいのだろうか。

制服のポケットからメモ帳を出し、そこへ携帯の番号などを素早く書いて渡す。これでもう帰ってくれるよね?
だけど徹生さんは内ポケットに折りたたんだ紙片をしまうと、まだ夏休み期間で比較的お客さまの多い店内を物色し始めた。

品の良いスーツで堂々と歩く彼はとにかく目立つ。
隠し撮りしようとまでするお客さまを、店員が慌てて注意しているのが見え頭が痛くなった。

「桜王寺さま。なにかお探しでしょうか?」

顔を引きつらせながら接客を続けようとする私に、にっこりと笑顔を見せる。その胡散臭さに身構えた。

「ああ、マンションのベッドを新調しようと思っていてね。オススメはどれだ?」

展示品のベッドの縁に腰掛けマットレスを掌で押し、スプリングの感触を確かめている彼を、なんとか店内から追い出そうと試みる。

「どのようなものをご希望でしょうか。大きさや床からの高さ。フレームの材質などでもがらりと印象が変わりますが。よろしければカタログでご説明しますので、こちらへ……」

店の奥へ案内しようと伸ばした腕が引っ張られた私は、ものの見事に徹生さんの膝の上に座ってしまっていた。

「ふたりで寝ることになるのだから、楓に合わせる。どんなベッドが好みだ?」

耳穴に吐息とともに吹き込まれ、その場から飛び退く。どくどくと脈を打つ片方の耳を押さえて頭を下げた。

「し、失礼しました」

途端に、不機嫌を露わにする徹生さん。これって、どうしたらいいの?





< 79 / 87 >

この作品をシェア

pagetop