魅惑への助走
 「榊原さん、タクシーがビルの前に到着しました」


 事務所の子が窓の外を確認し、告げた。


 榊原さんが呼んでくれたタクシーが到着したらしい。


 「じゃ、明美ちゃん。下まで送っていくから」


 今日はひとまず大事を取って帰宅することになり、積もりに積もった話はまた後日ということで。


 「落ち着いたら連絡するから。まずは飲みに行きましょう」


 そういって榊原先輩が、オフィスのドアを開けたときだった。


 「あっ!」


 「!」


 確認しないでドアを思い切り開いたところ、廊下からオフィス内に入ってこようとした人に接触した。


 「社長……」


 榊原先輩が青ざめる。


 遅くまで外出しているはずの松平社長が、不意にオフィスに戻ってきたのだ。


 「一件予定がキャンセルになっちゃって。メールしたんだけど気付かなかった?」


 「あ……、すみません。確認してませんでした」


 私の看病に必死で、榊原先輩はメールをチェックいていなかった。


 「剣身くんもオフになったから、とりあえず連れ帰ってきた」


 「えっ」


 予想外の出来事に、先輩も驚きを隠せない。


 「あら? お客様いらしてるの?」


 社長が私の気配を見とめた。


 「え、まさか。明美ちゃん……?」


 そして私に気付く。


 逃げも隠れもできないまま、私は先輩の後ろに立ち尽くすしかできない。


 私はたちまち、社長と共に入ってきた佐藤剣身の目に留まる。
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