魅惑への助走
 「ごめん、はっきり聞こえなかった」


 「……離婚してください」


 甘い雰囲気に包まれていた寝室が、突如として静けさに覆われる。


 しばしの沈黙の後、


 「理由は……、佐藤剣身?」


 葛城さんは薄々勘付いていたようだ。


 佐藤剣身との再会の後、私の様子が少しずつ変わり始めていたことに。


 「私、一番やりたいことは何かはっきり気付いてしまったんです。ですがそれをやることによって、葛城さんに迷惑をかけてしまうんです……」


 「AV製作か」


 こういう日が来ることを心のどこかでは予期していたかのように、葛城さんは淡々と私に対応する。


 「子供の頃から、暖かい家庭っていうものが私には欠けていて、それゆえずっと憧れていて……。だから葛城さんからプロポーズされた時は、これでやっと自分の居場所が見つけられたと思って仕事をさっさと辞めたんです。普通の主婦としての生活も楽しかったです。念願の小説家デビューも嬉しかったし。ですが、自分の思うがままに何かを表現したいっていう衝動を抑えられなくて……」


 長々とここまで至った過程を説明しているうちに、言葉が詰まってきた。


 感極まって泣き出しそうになるのをぐっと堪え、葛城さんに今の気持ちをありのままに伝える。
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