臆病者で何が悪い!
「生田君……っ」
なんで、生田――?
京子の表情が一変した。
今にも逃げ出してしまいそうなほどに、動揺している。
私も、驚きのあまり何も言葉が出て来ない。
「……今の、全部、聞いてた?」
京子が震えた声でそう言って生田を見上げる。
「全部って? 俺が聞いたのは、『内野は流されて付き合うような子じゃない』っていうくだりのところからだけど」
「ほ、本当に……?」
京子がまるで縋るように、生田の答えを待つ。
本当かどうかーーそれが、京子にとってどれだけ大事なことか。
生田が言っていることが本当なら、京子の生田への気持ちははっきりとは聞かれなかったことになる。
「ああ。ちょうど、今通りかかったところだし。そんなこと、嘘ついても仕方ないだろ」
無意識なのか、自分の腕を掴んでいた手を京子が緩めた。
「そ、そっか……」
懸命に生田に笑顔を向けている。私は、何も言えずにただ俯いた。
そんな私の隣に、生田が立つ。
「それで、通りがかったついでにいい?」
淡々とした声が京子に向けられる。私と京子の張り詰めた空気に似合わない、本当にいつもの生田の喋り方。
「香川の言う通り、こいつ、いっつも女捨てて同期の奴らのために走り回ってたろ? 香川が内野のそんな姿を見ていたのと同じように、俺もずっと内野を見て来た。内野が同期を大切にしているように、内野だって誰かに大切にされたっていいはずだ。それで、そうしたいって思ったのが俺だった。ただそれだけのこと。内野が誰かに甘えることがあったって、別にいいよな?」
生田――。
私は、思わず生田を見上げた。
「香川だって、そう思うだろ?」
「……そうね。沙都は、女の子の中でただ一人、いつも世話する方の人だった。私たち他の女子は、いつもみんなが用意してくれた席で楽しさだけを受け取ってた」
京子が目を伏せて呟くように言った。
「そんなことーー」
思わず声を上げると、生田が私を制止して言葉を繋げた。
「それはそれでいいと思う。別に、香川たちが悪いわけでもない。ただ、放っておくと自分を労わることを忘れるこいつを俺が放っておけないだけだから。香川は今まで通りでいい。俺が内野の面倒見るから」
生田が微笑んだ。
「それで、香川に一つお願いがあるんだけど」
「お願い……?」
お願いって、何を言うつもりなんだろう……。
京子も強張った表情のまま、不思議そうに生田を見返している。
「内野は、俺と付き合っていること、他の人間に知られたくないんだと。まあ、職場内だからな。香川も分かるだろ? だから、その辺内野に協力してやってくれる?」
それ――。
京子との会話で、もうそんなこと私からは言い出せるような状況じゃなかった。
「あ、ああ……。沙都と生田君からのお願いなら聞かないと、ね」
京子が肩から力が抜けたかのように、力なく笑った。
「悪いな」
「ううん。じゃ、じゃあ、私、今日予定あるから。そろそろ失礼するね。じゃあね、沙都」
「待って――」
そのまま走り出した京子を呼び止めようとして、生田が私の腕を引いた。
それに思わず生田を振り返る。
「香川!」
「ん?」
そして、生田が京子を呼び止めた。
振り向いた京子の表情は、やっぱり辛そうだった。
「――ありがとな」
京子は、ハッとしたような表情をして、すぐに笑顔で首を振った。
生田の優しくて、どこか労わるような声が私の胸にまで響く。
京子に向けたその目は、私から見ても、優しい眼差しに見えた。きっと、京子にもそれは伝わっている。
京子の表情はまだ歪んでいたけれど、さっきみたいに無理やりにつくった強張った笑顔ではなかったからだ。
そして何かを振り切るように立ち去った。
「京子っ」
「やめとけ」
掴まれたままだった腕を、さらに強く引かれた。
「生田……っ」
「おまえは、弁当買いに行かなきゃならないだろ?」
私、今、どんな表情をしているんだろう。
きっと、とんでもなく情けない顔をしている。
そんな私を、生田の強い視線が見下ろしていた。
生田と並んで、歩いている。
とりあえず、生田の言う通りお弁当を買いに行かないと。
いつまでも油を売っているわけにもいかない。
こうして歩いていても、京子の叫びが頭から離れない。
生田があの場に来なかったら――。
私は、どうしていたんだろう。京子に何を言えたのだろうか。
生田が、来なかったら――。
そう言えば、生田はどうしてあの場にいたの?
本当に、会話を全部聞いていたわけじゃなかったの?
「生田ーー」
私が問いかけようとしたのに、生田の言葉がかぶさるように放たれた。
「今、何考えてんの?」
「え……」
生田の顔を見ても、生田は前を見たままだ。
「『私なんか』が付き合ったりしていいのか。とか……?」
「生田――」
「それがおまえの思考回路だろ?」
生田の皮肉めいた笑みが、私の卑怯な感情をあぶりだす。いつもそう。私の弱いところを見逃してくれない。
「でも、そういう思考回路、いい加減捨てろ」
「そんなこと思ってないよ。思ってないけど……。でも、仕方のないことだって完全に割りきれないのよ。痛いほど気持ちが分かるからーー」
「そうだよ。おまえが一番よく分かってることだろ? 恋愛なんて、皆が平等に成就するものじゃないってこと」
生田が私をじっと見下ろす。
「生田……。やっぱり、さっきの会話、全部、聞いてたの……?」
いつからーー?
「本当に、弁当買いに行こうと思って通りかかっただけだ」
視線を私からまた前に戻す。
嘘だ。生田は、絶対に聞いていたんだ。それでタイミングを見計らって出て来た。
京子と、そして私のことを考えて。
京子の想いを聞いていないことにした方が、私と京子二人にとって都合がいい。
もう、さすがに私だって分かって来た。
生田の考えそうなことくらい。
「そんなことより、あれくらいのことでいちいち迷わないでくれ」
生田から溜息のように吐き出された言葉に、私は声を上げていた。
「迷ったりなんかしてない!」
「じゃあ、なんでそんな顔をしてるんだ」
生田の低い声が私の足を止める。
「悔しいからだよ!」
私は、そこがどこかも忘れて感情的になっていた。
きっとこれも全部八つ当たり。
自分の感情が揺さぶられまくって。京子の想い、自分の感情、そして生田の想い。
その三つがぐちゃぐちゃになって私の心をかき乱しているからだ。
「京子に何も言えなかった自分にも、生田にああやって尻拭いさせて、あんなこと言わせたことにも……っ」
「内野、俺は……」
「嬉しかったよ。あんな風に言ってくれて、嬉しかったんだけど」
じゃあ、生田はどう思う?
京子は、「好きでもないのに付き合うようなことはするな」と言ったのだ。
私は、それに対して明確な否定すらしていない。
それを聞いていた生田は、何を思ってあんな風に言ってくれたの?
「私って、何やってんだろうなって。どんな覚悟を持って、京子に言おうとしていたのか……」
「ーーもう、行くぞ」
そう言って歩き出した生田は、それ以上何も言わなかった。
12月の空は、もうとっくに暗くなっていた。
歩道を行き交う人が視界に入る。
そうだ、ここは職場の近くだ。
霞ヶ関の外れにある霞ヶ関ビルの地下には、数多くの飲食店や弁当店が入っている。
私の希望を聞くこともなく、勝手に進んで行く生田の後に続い歩いた。
いくつも店はあるのに、生田が勝手に選んで立ち止まる。
「おまえの弁当もここでいいな?」
「あ、うん」
いやだ、なんて言わせる雰囲気でもないくせに。
生田はもう既にとんかつ弁当を買い始めている。私も慌てて隣で、五人分のお弁当を選ぶ。
とんかつだって、メンチカツだって、弁当なんて、どうだっていい。
「内野は五人分だろ? まだ時間かかるな。じゃあ、ここで買っておけ」
私が手当たり次第お弁当を手に取っていると、突然生田がそう言ってその場から離れた。
なんなのよ、一体……。
手のひらに載っていた五つのお弁当を店員に差し出す。
私がちょうど会計を終えた頃に生田が戻って来た。
「弁当、買えたか?」
「うん……。生田はどこ行ってたの?」
買えたには買えた。走って戻って来た生田が、私の手にしていたビニール袋をさりげなく取り、空いた私の手に紙袋を載せた。
「何?」
「五個の弁当は、重いだろ?」
「いや、それもそうなんだけど、この紙袋……」
小さな白い紙袋と生田の顔を交互に見つめる。
「それ食うと、一番の癒しになるんだろ?」
「え? ちょっと」
両手にビニール袋を持った生田は、もう既に歩き出していた。慌ててその背中を追いつつも、手にした紙袋を改めて見るとーーそれは、私の大好きな『しむらや』のものだった。
「ねえ、これ、もしかして、あんぱん?」
私の愛しの、しむらやのあんぱん。
「俺はあんぱんに負けるのかと思うと悔しいけど、それ食べると内野は笑顔になるからな」
「生田……」
前を向いたまま歩くその背中に、胸がぎゅっと締め付けられる。何故か、涙が溢れそうになった。
多分ーー。ここが職場近くじゃなかったら、その背中に抱き付いてしまっていたと思う。
「生田は、本当に、いい男だね」
だから、そんな自分を誤魔化した。
「そんなこと、今頃気付いたのかよ。俺は、そこそこいい男だと思ってたけど、誰かさんは全然気付いてくれなくてな」
生田が私を振り返り笑う。だから、私もつい笑ってしまった。
「他の人のことみたいに、俺のことも、少しくらいは考えてくれたらと思うよ」
そう言うと、生田はまた前を向いた。
「内野さん、買って来てくれたのは嬉しいけど、この買い方は、何か意図があってのこと?」
部屋に戻り、お弁当を広げると係長が声を上げた。
「す、すみません。あんまり何も考えられなくて……」
野菜炒め弁当
野菜炒め弁当
コロッケ弁当
野菜炒め弁当
特上ヒレかつ弁当
あれ、なんでトンカツ弁当入ってないんだ?
目の前にあったじゃん。
「一つだけ格差あり過ぎだし、野菜炒め弁当が何故か多いし」
「あの、私残り物でいいので」
「この特上ヒレかつ、誰のためだと想定して買ったの? 自分? それともイケメンだからって田崎さんとか?」
「い、いえ、そんな他意はありませんよ」
まずい、係長、完全にピリピリしてる。
「まあまあ、係長から選べばそれで問題ないですよね? 僕らは何だっていいんですから。ほら、それより早く回答の大枠を決めないと」
「そうだった。じゃあ、俺はコロッケ弁当で」
田崎さんが、助け舟を出してくれてことは収まったみたいだ。
「なんか、すみません! 私は何でもいいので。って言ってももう野菜炒め弁当と特上ヒレかつしかないですが」
「いいよ。係長、今、質問の内容で気が立ってるだけだから」
係長が仕事に戻ったところで、小声で頭を下げると田崎さんが「気にしないで」と微笑んだ。
「そうそう。確かに特上ヒレかつが野菜炒め弁当の2倍以上の値段だけど、大丈夫よ」
向かいに座る結城さんも、微妙なフォローをしてくれた。
京子とのことで頭が一杯だった。
「すみません……」
結局、誰も手が出なかった1,800円の特上ヒレかつ弁当は田崎さんが選んでくれた。
私は、野菜炒め弁当を食べた後、夜食としてしむらやのあんぱんを食べた。
カロリーオーバーには違いないけれど、そのあんこの甘さが胸に沁みた。