臆病者で何が悪い!
田崎が戻って来た。
「すみませんが、お先に失礼します」
ちらりと俺に視線を送ってから、田崎は慌ただしく部屋を出て行った。
誰かから呼び出しでもかかったのか。
どんな理由であれ、あの憎たらしい存在を視界に入れないで済むかと思うと、心のそこからホッとする。
これで、仕事もはかどりそうだ。
一刻も早く。
そう思ったらもう待ちきれなくて。最初は23時までは働こうと思ったけれど、フライング気味に職場を出た。
足取りも、気付けば大股になりしまいには走り出していた。
ドアをあければ、出迎えてくれるだろうか。
やっと、やっと間近であいつを感じられる。
俺だけのものに、独り占めできる――。
沙都も、俺に会うのを心待ちにしていてくれるだろうか。
勝手に満面の笑みで俺を迎えてくれる顔を想像しては、緩みそうになる表情を引き締めた。
1月の冷たい夜を、俺はただあいつのことだけを考えて走っていた。
ポケットからひったくるように鍵を出し、急いで鍵穴を回す。
「沙都、ただい――」
もう深夜という時間に入って行こうというのに、俺はドアを開くと同時に沙都の名前を呼んでしまっていた。
「ま……」
でも、いつもと同じで、部屋の中は真っ暗闇だった。
腕時計に目をやるも、時刻は23:30――。
俺の部屋に着いていてもいい頃だ。
同期の飲み、盛り上がってるのかな。
沙都は幹事だ。また周りの世話を焼いているのかもしれない。
酔いつぶれた奴の介抱をしているのかもしれない。
誰の気配もない、冷気の漂う部屋に、さっきまでとは打って変わって重い足を踏み入れる。
明かりをつけて、コートを脱ぐ。
走って来たせいで、無駄に息だけが上がっていて、静かな部屋に俺の息遣いだけが響く。
シャツの首元と、ネクタイを緩めた。
今どの辺なのか、電話するくらいならいいかな。
俺は、スーツのジャケットのポケットからスマホを取り出し、沙都の番号を表示させた。
何回かの呼び出し音の後、突然沙都の声が飛び込んで来た。
(もしもし、生田ごめんっ!)
それは、潜めたような声でありながらどこか必死なものだった。
「今日はおまえが来るからって、いつもより早めに仕事を切り上げてたんだけど帰ってもいないからさ。飲み会、長引いてんのか? 何時になりそうだ? なんなら途中まで迎えに――」
そう言った俺の言葉は、沙都の声によって遮られる。
(ごめん。実は、今、希がうちに来てて。詳しいことはまた明日話すけど、今日は希のそばにいてあげたいの。だから、今日はそっちに行けない。本当に、ごめん)
くぐもっていて早口なあいつの声を、俺はどこか遠くで聞いているような気分になった。
そっか……。今日は、会えない――か。
その事実が、おそろしいほどに俺を砕きそうになるのを寸でのところで留める。
「……そうか。飯塚がいるなら仕方ねーな」
(ホントに、ごめん)
てっきりさっきの田崎にかかってきた電話は、飯塚からの呼び出しなのかと思っていた。
その飯塚が沙都の部屋に来ている。
きっと、飯塚に何かあったのだろう。
ここ最近の田崎の発言を聞いていればなんとなく想像もつく。
このまま話していたら、どうしても恨みがましいことを言ってしまいそうだ。
「いいよ。飯塚に何かあったんだろう? そこにいるなら、確かにあまり話せないだろう。じゃあ、切るな」
だからごちゃごちゃ言わずに切ることにした。
突然空っぽになった胸の中は、俺一人でやり過ごせばいい。
(生田っ!)
そんな俺に、沙都の切迫感のある声が耳に届いた。