恋の人、愛の人。
朝、いつもの時間に会社に行くと、通路を前から歩いて来る部長に会った。
「おはようございます」
「おはよう」
ここで会えて良かったと思った。誰も居なかったから、昨夜はご馳走様でした、と付け加えた。いや、と返されすれ違った。
会社の通路だからこんなモノだ。そう思っていた。
咄嗟に後ろから腕を掴まれ引かれた。
強制的に振り向かされた身体は胸に飛び込むように抱きしめられた。
それは一瞬だけの事だった。
「満足。…じゃあ」
そう言って向かうべき方向へ歩いて行ってしまった。
…あ、は、…はぁ…。まさか…こんな場所でなんて…、はぁ、ムスクの香り……びっくりした…。
その場に立ったまま背中を見送っていたら振り向かれた。
…や。何か感じ取ったのかな。それともただ部長の意思で振り向いただけ?
確か…私も…、バーの帰り、陽佑さんが見てる気がしたって感じてたんだ。実際はどうか解らないけど。
振り向いた顔は優しかった。…嬉しそうな、微かに笑った顔だ。
直ぐ前を向いて、歩いて行ってしまった。
あの表情は…どこか、してやったりってところなのかな。
はぁぁ…まさか部長室でもないのに、僅かな時間だったとはいえ、こんな大胆な事をされるとは思わなかった。ただただ驚いた。…ドキドキした。部長って、グイグイ攻めてくるのね、びっくりした。
朝から心臓に悪い。
少しスパイシーなムスクの香りに惑わされそうだ。
「おはようございます」
「わ、ぁ…お、おはよう」
黒埼君…。もぅ、驚かさないでよね…。
「どうしたんです?邪魔ですよ、こんなど真ん中で立ち尽くして」
見てはなかったのね。
「何でもない、悪かったわね邪魔して」
返事をしながら黒埼君と歩き始めた。
「ふ〜ん…。
明日になりましたね。ご飯は嬉しいけど、俺的には複雑なんですよね〜」
「…え?あぁ、え?今話す?」
キョロキョロした。
「大丈夫。誰も居ませんから」
誰も居ない、か…。だからといって、黒埼君には襲われる心配はない。…フフ。
「ん?やっぱりどうかしたんですか?」
「え?ううん。何でもないから。
あ…今日ね、ちょっと買い物して持って行っておくつもり。明日何もかも一度に買うと重くて大変だから。本当…何にもなくなってるし」
「そうですよね。土曜からは梨薫さん、また元のように暮らすんだから。
昼間だって居る訳だし。色々と必要ですよね」
…そうだった。会社じゃないから夜になって帰るって事でもないんだ。
金曜…土曜、どうなるかな…。