恋の人、愛の人。


「黒埼君…」

ん?…はぁぁ…ハハ、重症だな…。梨薫さんの声がしたような気がした。はぁ…違うよ、これは俺の願望がそう聞かせた…幻聴だ。

エレベーターは下に着いた。

旅行にでも行く格好だな。いや、長期滞在の出張か。トランクを下ろしゴロゴロと引いた。

「黒埼君!」

…え。はっきり聞こえた。足を止め振り返った。

「…梨薫さ、ん」

走って追い掛けて来ていた。…、あ、梨薫さんだ。脈が早くなるのが解った。

「待って、黒埼君!」

立ち止まっていた俺に梨薫さんは飛び込んで来た。咄嗟に持ち手を放し受け止めた。……お。
…これって。同時に心臓が大きく跳ねて動悸が早くなった。

「…お願い、こんな風に行かないで」

「え?」

「あんな丁寧な言葉で、置き手紙とか、されて…置き去りみたいにしないで…」

……あ。…そうか、…そうだった。兄貴はこうして居なくなったんだった。もう会うことはないって。

「追いつけて良かった。顔を見てちゃんと見送れる」

………へ?見送れる?行かないで、じゃないのか?見送っちゃうの?

「月曜に黒埼君にもし会えなかったら心配もするから」

そこは兄貴を重ねたっぽいのかな。……はぁ。なんだ、そうだよな、行かないでじゃないんだ。

「…大丈夫ですよ。居なくなる訳じゃないです。帰るだけでしょ?
会社にはちゃんと行きますから、また会いますよ」

「うん」

…はぁ。

「んー、せっかく、格好つけて出て来たのに…」

「だって…」

「ずっと起きてたんですか?」

「…うん」

着替えまで済んでるし。

「多分、こんな風にして帰っちゃうだろうと思ったから、一応着替えもしてた。だけどこんなに早く帰らなくてもいいのに…」

…下から見上げられた。

「……はぁ、だったらリビングの方に居てくれて良かったのに……やっぱりそれは、居辛いか…」

「…そうよ」

少し拗ねた、かな。当たり前でしょって顔をしてる。

「はぁ…。とにかく、帰ります。冗談抜きで、今、梨薫さんの部屋には戻れませんから。時間帯に関係なく、間違いなく今なら押し倒します。自信があります」

「もう…黒埼君…」

軽く胸を叩かれた。…本当だ。

「…映画は刺激が強過ぎましたね。俺は今、完全に影響を受けていますから。追いついてくれたのがここで良かった。早目に、部屋の中、廊下や玄関先で止められていたら…梨薫さんヤバかったですよ?…今頃は…あー、言えないな」

「もう…またぁ、…そんな事言って…」

…ん?…少し瞳が揺れているのか…。

「…フ。…俺がここで出来るのは…これが精一杯だ…」

梨薫さんの頭に腕を回し、顔を引き寄せ口づけた。両手で顔を包んで更に奪い続けた。
…心臓が…破裂しそうだ。狡い事をしているのは解ってる、だけど…止められるまでしようと思った。…梨薫さん。

「……黒埼君…」

梨薫さんは顔を引くと俺の胸に軽く両手をついた。…タイムリミット、か…。

「…はぁ…昨夜からの…有言実行です。手は握りました…キスはまだだった。だからちゃんとしなくちゃね?しましたよ?
…じゃあ、月曜に会社で。ちゃんと行きますから。俺は…消えたりしない…」

「…え?」

黒埼君は持ち手を掴むと片手で抱きしめた。
トランクを引いて帰って行った。

黒埼君……やっぱり、こんなのって寂しいじゃない…。居なくなった部屋に戻って一人で居るなんて…。
何を言ってると言われても……狡いのは解ってる、だけど私も…“朝帰り”しようかな…。
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