亡国の王女と覇王の寵愛
 狙いを定めて、ナイフを突き立てようとした。
 だが。
「あっ」
 渾身の力を込めたナイフは、あっさりと弾き飛ばされてしまう。
 乾いた音が暗闇に響き渡った。
(これでようやく……)
 本当にナイフを突き立てるつもりがあったのが、自分でもよくわからなくなっていた。ただこれで、ようやく生かされるだけの残酷な日々が終わるのだという安堵が胸を満たしていた。
 きっと覇王は、己に逆らう者を許さないだろう。
 レスティアは落ちたナイフを拾おうとはせず、身体を起こしてそのまま床の上にきちんと座る。
 失敗したと知ったときからではなく、覇王がこの部屋を訪れた瞬間から、もう覚悟を決めていた。
「そろそろ大人しくなったかと思ったが、まだ時間が必要だったようだな」
 暗闇に響き渡る冷たい声。
 ことりと物音がした。
 小さな机に置かれたらしいランプの光が、彼の姿を映し出す。
 赤い髪。そして冷徹な青い瞳。
 それは間違いなく、ヴィーロニア国王のジグリットだった。
 祖国を攻め滅ぼしたあのときのように鎧は身に付けておらず、国王とは思えないほど質素な服装をしている。その装いだけを見れば、誰も彼があの覇王だとは思わないだろう。けれど鋭すぎる視線とその身体から滲み出る威厳が、彼の存在感を際立たせていた。
 目の前にいるのは、すべてを奪った憎い仇だ。
 そんな彼を目の前にしているのに、不思議とレスティアの心は澄んでいた。開放感が胸を満たしている。
 ジグリットはゆっくりとした足取りでレスティアに歩み寄ると、床に転がっていたナイフを拾い上げる。
「この部屋に移したときに、武器を持っていないのは確認している。これをどこで手に入れた?」
 彼の質問に答えず、レスティアはただ静かに目を閉じた。
(お父様、お母様。今、お傍に……)
 それなのに、待ち詫びた瞬間はなかなか訪れない。レスティアに与えられたのは慈悲の死ではなく、残酷な覇王の言葉だった。
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