今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 彼が可笑しそうに笑う度、不満そうに顔を顰める度、照れたように顔を背ける度、悲しそうに目を伏せる度……世界が震えて動き出す。彼を彩るように、世界が変わっていく。
 蓋が弾け飛んで吹き出すように、世界が勢い良く走り出す。アリーナが知っていたそれと同じものだとは、とても信じられないくらいに生き生きと動き始めた。

 どうして──思わず自分自信に問うて、わからない、と即座に首を振る。

 わかってはいけない、と。

 アリーナが今まで少しずつ零してきたものを、カディスはしつこく拾い集めてしまう。
 そして、何気なくそれをこちらに差し出すのだ。理想、願望、夢、希望──自分の手には余るとアリーナが必死で諦めたものを、落としたぞ、しっかり持っておけ、なんて軽く言うように。

 そんなことをされて。
 何も思わない方がどうかしている。

「なんだ?」

「……なんでも、ありません」

 きっと彼は気がついていない。だから、こんなに無邪気にこちらの心を揺らすのだ。

 もうアリーナには止められない。ずっと頑なに蓋を閉じたままだったアリーナに不満なのか、心はまるで言うことを聞こうとしない。まるで、本当はずっとこうしたかったかのように──


 それでは、困るのに。

 自分とフェリエには何の差もないのだから。ただの気紛れ、偶然、そんなもの。カディスにとっては捨て猫を拾ったくらいの感覚なのだろう。たまたま、任されたことが違うだけ。

 自分に足りないものを、欠けたものを、無いものを持っているカディスが、眩しくて堪らなかった。

 ただの下町の娘では、汚れた自分では、とても触れられない。自分には──手に入らない。

 自分にとって彼がどれほど特別に見えても、彼にとっての自分は他と変わらない。
 当然のことだ。立っている場所が違う。


 だから。物分りのいい自分は、微かに触れた手の甲に、絡みかけた指先に、気がつかないふりをしよう、と。

 ……無理だ。
 胸が、痛い。

 痛くて痛くて、アリーナは我慢できずに勢いよくその手を抱き締める。
 何故か傷ついたような顔をしたカディスに、もっと胸が痛くなって。抉られるように痛んで、息が詰まる。視界がぼやける。どうすればいいのかわからなくて、アリーナはただ、視線を落とした。
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