恋愛ノスタルジー
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その夜。

カチャリと静かな音がして、キッチンのドアが開いた。

それから衣擦れの音とドアが生み出した風に乗ってギルティオムが香る。

圭吾さんだ。

彼はいつも『ただいま』を言わない。

最初はそれを寂しく思っていたけれど、今の私にその感情はない。

「あ、圭吾さん、お帰りなさい!」

鴨肉を低温のオイルで煮ていた私の両手は、上着を受け取るには綺麗じゃなかった。

でもいい。圭吾さんと暮らし始めた初日、帰宅した彼の上着と鞄を受け取ろうとして、

『君にこういう事をしてもらう気はない』

ケンもホロロにそう言われたのを私はしっかりと覚えていたからだ。

だから圭吾さんには触らない。

そんな事より火の通りを見なくちゃ。

自分ではこんなものかなと思うけど、やっぱり他人のアドバイスが欲しい。

圭吾さんは私から離れたところにある冷蔵庫を開けようとしている。

……ダメ元でお願いしてみよう。

「あの、圭吾さん。鴨肉のコンフィを作ってるんですけど味見をお願いしてもいいですか?後は表面を焼けば完成なんです」

「夕飯は済ませた」

相変わらず静かで冷たい声。

素敵な声なのに……台無し。

ミネラルウォーターを一口飲んで振り返った圭吾さんは『イチイチ張り切るなよ』とでも言いたそうな表情だ。
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