マドンナブルー
夏休みに入り、焼き付けるような日差しの中、美術部一行は合宿地である網地島を目指し、船に揺られていた。
咲羅と美奈子はデッキにたたずみ、船の揺れと連動する波のうねりを、波しぶきに目を細めながら眺めていた。
「きゃあ!気持ちいい!」
美奈子ははしゃいだ声で言った。冷たい水の粒が、肌を心地よくなでていく。
長い髪をたなびかせ、女優を気取るように地平線を見つめる美奈子の傍らで、咲羅は、いくつかの人の群を隔ててたたずむ安藤の姿を捉えていた。数人の生徒に囲まれた彼は、相変わらず控えめな笑みを浮かべている。咲羅は、安藤に抱いていた好意が恋心であると自覚してからというもの、彼を今まで以上に強く意識するようになった。そのため、彼と接するときの態度がぎこちなくなっていた。一方で、彼から性をたぎらせたまなざしを受ける、絵の女性に嫉妬を抱き、彼と、その女性との現在の関係性を探り出したい気持ちとなっていた。
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民宿は、船着場から少し登った、小高い丘に建っていた。一家で営む民宿のオーナー夫婦が、美術部一行を暖かく迎えてくれた。一行は、宿が用意してくれた軽い昼食を食べた後、二時間ほどの作品制作の時間が設けられていた。それが終わり、初めて自由時間となる流れだったのだが、バカンス気分を刺激する道具立てが邪魔をし、誰一人として制作に集中できなかった。そのため安藤が、仕方なく自由時間を三十分ほど繰り上げた。
盛夏の太陽光線を受けた砂浜は、光り輝いていた。離島のため客数も少なく、とても静かだった。太陽の下に肌をさらけ出した美術部一行は、ビーチへと繰り出していた。ビキニを着ることを渋っていた咲羅だったが、ビーチではビキニが正装であると錯覚するほど、ビキニ姿の女性が多い。そのため、彼女の羞恥はしだいに薄れた。
「皆!ビーチバレーやろうぜ!」
ビーチボールを片手に持った杜が、海で遊ぶ面々に大声で募った。海パン姿の杜の体は、小柄ながらたくましく締まっている。「やろうやろう」と皆海から上がり出し、杜の周りに集まった。
「チーム分けは適当でいいよね。じゃあ川島先輩から七人がこっちチームで、後はそっちチームにしよう」
梅田がスムーズにチーム分けをしたが、一方のチームが一人足りないのに気付いた。
「先生を誘おうぜ!」
杜がそう提案すると、皆あたりを見回して安藤を探した。安藤は、後ろの木陰に座っていた。ラムネの瓶を片手に。もう一方の手には、海の家の店先で網焼かれ、あたり一面に強烈な磯の香りを漂わせている、名産のホヤの串焼きが握られていた。潮風が吹くと、彼は気持ちよさそうに目を細める。
安藤を見つけた一行は、いっせいに爆笑した。彼の周囲だけ、春のようなうららかな空気が漂っている。同時に数羽の紋白蝶が飛び交い、彼の傍らに蜂蜜の入ったつぼが置かれているという幻覚を、皆そろって見たのだ。しかし、杜だけはあきれすぎて笑えないらしく、
「先生はプーさんかよ!ホヤなんか食ってる場合じゃねえべ!」
そう叫ぶと、安藤をビーチバレーに駆り出すため、数人の男子と共に彼の元へと駆け寄った。突然、襲い掛かるようにやってきた生徒たちに、安藤は驚いた。すっかり素肌を見慣れた生徒たちは、「先生のかっこう、暑苦しいよ」と言い、彼の着ていたTシャツを脱がし始めた。安藤はよく状況がつかめず、生徒にされるがままの状態になっていた。しかし、悪ふざけがすぎた生徒の手が、彼のハーフパンツにかかったとたん、彼はあわててハーフパンツを両手で押さえ、死守した。そんな彼のあわてようがまたおかしく、ふたたび生徒たちは笑いが起こった。
上半身をむき出しにされた安藤の体は、まるでアクション映画から抜け出してきたかのようだった。その迫力に圧倒された男子たちの心に、ふたたびいたずらの火がついた。安藤を取り囲んだ男子たちは、羨望の言葉を投げつけながら、ベタベタと彼の体を撫で回す。彼は抵抗せず、ただただ苦笑していた。
少し離れた場所から、男子たちと安藤のじゃれ合いを見ていた女子一同は、呆れ顔を浮かべた。
「男子って、ほんと子供でバカよね」
その点、大学生は大人で素敵よ。・・・・・・とでも言葉を続けたかのように、美奈子は驕慢な表情を浮かべた。咲羅は、「まったくそうよね」と同調したが、
<私も、先生の体を触りに行きたい!>
心の中ではそう叫んでいた。
安藤を交えてビーチバレーに興じた一行は、日没直前までビーチで遊んだ。普段、どこか陰を感じさせる控えめな安藤が、いきいきと笑う姿を、このとき咲羅は初めて見た。
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宿に戻ったころには、一行はくたくたに疲れ果てていた。しかし心地よい疲労である。夕食は、豪華な海の幸だった。殻を半分に切られただけのウニは、黒い無数のトゲを元気に動かし、皿から逃れ出ようとする。マグロや鯛の刺身に、ホヤの酢の物も食卓に並んだ。
「わあ!おいしそう!」
生徒たちから歓声が上がった。ごはんを装ってくれている宿の女将さんが、にこにこしながら一行の顔を見回し、
「皆さん、ずいぶん日に焼けましたねぇ。まあまあ、先生まで真っ黒になって」
そう言われ、一行はお互いに顔を見合わせた。改めて、今日一日の楽しかった思い出がよみがえった。
夕食はとてもおいしかった。とりわけ咲羅は、一見グロテスクなホヤの酢の物を気に入った。口いっぱいに広がる磯の香りと、ほのかな甘みの虜になった。ホヤを食べられない生徒が何人かいたので、彼女は片っ端からもらって食べた。それを見た安藤が、
「吉岡は、将来のんべえになりそうだね」
と言ったため、咲羅は皆に笑われた。
夕食後は、夜のビーチで花火をした。民宿に戻ると激しい睡魔に襲われ、全員が夜十時には就寝した。
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深夜、咲羅は激しいのどの乾きで目が覚めた。携帯電話を開いて時刻を確認すると、まだ午前三時をすぎたところである。ふすま一枚で隔てた隣の男子部屋からは、数人のけたたましいイビキ音が聞こえてくるのだが、誰一人起きる気配はない。
咲羅はけだるい体を起き上がらせ、戸外へ出た。熱い体に夜風が心地よい。彼女は月光を頼りに、雑草の生い茂った土塊の上を、おぼつかない足取りで下って行った。船着場の近くに、自販機があるのだ。この倦怠感とのどの乾きは、日焼けのせいである。もともと色白の咲羅は日焼けが得意でない。灼熱の太陽の下に長時間肌をさらしたことを、今さらながら後悔した。
自販機にたどり着いた咲羅は、サイダーを買った。彼女の位置からビーチが見える。月光に照らされた青白い砂浜に、黒い波が静かに打ち寄せる。美しく幻想的と感じる一方、おどろおどろしくもある。・・・・・・後者の印象が勝り、足早に宿へ戻ろうとしたのだが、青白い砂浜に、ぼやあと、白い塊があるのに気付いた。
咲羅は全身が硬直した。しかし、すぐにその塊は、白いTシャツを着た安藤だと分かった。咲羅は安堵すると同時に、ときめいた。彼に声をかけようと思い立ったのだが、彼の様子にギクッとした。
安藤は、ひざを抱えてうずくまるように座っていた。生気が感じられず、ぼんやりとしている。彼の口には短くなったタバコがくわえられ、白い煙がゆらゆらと、潮風の流れに沿ってくゆれていた。
咲羅は怖くなった。安藤が知らない人に思え、自分が立ち入ってはいけないように感じられた。その場を立ち去ろうと彼に背を向け、一歩踏み出したとき、何かにつまずいて転倒した。
派手に転んだわりに、痛みはほとんどなかった。地面を覆う草が、衝撃を和らげたようだ。咲羅は起き上がり、かがんで脚に付いた土を両手で払った。
「大丈夫ですか?」
聞き覚えのある太い声が、すぐそばから聞こえた。咲羅が顔を上げると、暗がりの中、安藤が目の前に立っていた。彼は、咲羅であると気付くと、急に表情を引き締めた。
「吉岡?吉岡じゃないか。こんな夜中に何やってるんだ」
と説教じみた口調で言う。咲羅はふてくされた気分となり、
「先生こそ、こんな夜中に何やってるんですか」
と切り返した。彼は面食らった顔をしたが、すぐに、いつもの穏やかな表情となった。
「僕はいいんだよ。夜中に出歩いたって。吉岡は女のこだから危ないよ。のどが乾いてジュースを買いに来たのか。民宿まで送るよ」
彼は、咲羅が手にしたサイダーを見て言った。
「先生も宿に戻るんですか?」
「いや、僕はもう少しここで涼んでいこうと思う。何だか眠れないんだ」
「私も眠れないんです。先生とご一緒してもいいですか?」
その言葉を、咲羅は撤回したくなった。一瞬だが、安藤は狼狽の色を浮かべたのだ。しかし、すぐに笑みを浮かべ、「もちろん構わないよ」と言った。
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咲羅と安藤は、砂の上に並んで座っていた。彼は、無造作に両脚を投げ出した体勢である。やはり、ぼんやりとしている。さざなみの音だけが流れる気詰まりな空気の中、咲羅は、所在なさげに小さく座っていた。
「さっき、偶然見たんですけど、安藤先生ってタバコを吸う人なんですね」
咲羅はサイダーの缶のタブを、プシュッと音を立てて開けた。何か声を出し、沈黙を埋めたかった。彼は、初めて咲羅の存在に気付いたかのように、ゆっくりと彼女に視線を向けた。
「意外だった?」
「意外というか・・・・・・」
言いよどんで言葉を探した。
「はい。意外でした。先生は純粋な少年というイメージがあって、体に悪いことは何もしないような・・・・・・」
「ハハハ。体に悪いことは何もしない、か・・・・・・」
彼は明るく笑ったが、すぐに憔悴した顔に戻った。
「タバコを吸ったくらいで死ねるんだったら、苦労しないよ」
投げやりに言い、安藤はごろんと仰向いて寝そべった。
ふたたび、沈黙が流れる。咲羅はサイダーを一口飲み込んだ。ピリピリとした刺激を感じるのみで、何の味もしない。咲羅は、安藤に好意を抱いているが、彼についてあまり知らないことに気付いた。彼について知りえている情報を、頭の中で整理し始めた。意志を抑圧された子供時代を過ごしたこと。一年間の病休をとって、ヨーロッパを放浪したこと。そのときの絵画が、乱心した精神状態を表していたこと。大学時代の、彼の恋人の絵・・・・・・。それらの情報を、一つの形に組み立てようとするのだが、なかなかまとまってこない。そのくせ明瞭となるのを恐れる気持ちもある。
居たたまらなさが頂点に達した咲羅は、
「私・・・・・・!」
そう絞り出し、すっと立ち上がった。
「私、やっぱり民宿に戻ります・・・・・・!」
咲羅が一歩を踏み出したとき、右の足首に、強くつかまれる感覚が走った。そこから全身におののきが広がり、強張った顔で安藤を見た。
安藤は、地面を這うトカゲのように腹ばいの体勢で、すがるように咲羅の足首をつかんでいた。憔悴した目で、咲羅を見上げている。
「お願いだ・・・・・・!頼むから、少しそばにいてくれないか・・・・・・?」
彼の異常な様子に、咲羅は恐れよりも、甘美なものが勝った。彼が自分を必要としているということが、彼女を陶酔させた。
ふたたび咲羅と安藤は、砂の上に並んで座っていた。相変わらず、さざ波の音だけが流れる。咲羅は横目で安藤を盗み見た。彼は、相変わらず海を見つめている。
やがて彼は、言葉をのどの底から引き上げた。
「妻と娘が死んだんだ。僕のせいで死んだんだ」