マドンナブルー
咲羅と美奈子は、とある週末ショッピングモールに来ていた。夏の香りのする蒸し暑い日だった。
モール内の喫茶店で二人は待ち合わせ、先に咲羅が到着し、少し遅れて美奈子が来た。
「ごめんね。待った?」
額に汗をにじませた美奈子は、白い膝丈のシャツワンピースを着ていた。近頃の派手な彼女の服装と比較すると、この日は地味である。二人はコーヒーを注文し、テーブルに向かい合った。
「咲羅と二人でショッピングするなんて、久しぶりよね」
美奈子は無意味にストローをもてあそび、アイスコーヒーに浮かぶ氷をカラカラ鳴らした。
「そうよね。及川さんは今日大学?」
「うん。サークルがあるんだって」
そう言い、美奈子は綺麗にマニキュアが塗られた指先でストローをつまみ、コーヒーを飲んだ。その動作が妙になまめかしかった。休日に美奈子と二人で会うのは本当に久しぶりである。たいていの休日、美奈子は及川と過ごす。そのことに、いくらか咲羅は寂しさを感じていた。
「そういえば、この前会った早坂さん・・・・・・」
美奈子はそう切り出した。咲羅の脳裏に、興味のない男性と手を握り合った、苦い色彩が浮かび上がった。
「彼がね、咲羅を気に入ったらしいの。メルアドを聞かなかったことを悔やんでたわ。彼に咲羅のアドレス教えていい?」
もう、勘弁してほしいと思った。
「私、誰かと付き合うとか、そんな気持ちまだないの。バイトも忙しいし」
「付き合うなんて大げさね。そんなに固く考えないでよ。ただ男友達が一人増えるだけじゃない」
「でも・・・・・・」
「ていうか、実はもう教えちゃった!ごめんね」
美奈子は甘えた声を出し、両手を顔の前で合わせ、舌をペロリと出した。
「もう!信じらんない!」
「ごめんごめん。及川さんの友達だし、私だって断れなかったのよぉ」
美奈子の声は、さらに甘ったるくなった。それに伴い、咲羅の怒りもおさまり始めた。美奈子の言うとおり、自分は固く考えすぎるのだと思い直した。
コーヒーを飲み終えたころ、ふいに美奈子が、「そろそろ見に行こうか」と、特別な目当てがあるような言い方をした。
「え、どこへ?」
美奈子はいたずらを企むように笑い、
「み・ず・ぎ・よ!」
と言い、ウィンクをした。
****
七月に入るということもあり、水着売り場は、絵の具箱をぶちまけたようなにぎやかさで彩られていた。水着の束を、熱心に、真剣に吟味している美奈子のそばで、咲羅はビキニを着けたマネキンの群を、所在なさげに眺めていた。やがて、美奈子は眼鏡にかなった一着を探し当てた。
「これよこれ!」
美奈子は興奮気味に言い、手にした水着を咲羅の体に押し当てた。
「やっぱり咲羅にぴったり!」
「ええ!私のを選んでたの?ビキニなんて着れないよ」
「だめよ咲羅。十七歳にもなって、スクール水着で海に行くなんて」
そうたしなめられ、去年、美奈子と一緒に行ったプールでの苦い記憶がよみがえった。周囲の女のこたちが弾けるような色彩に包まれる中、一人、咲羅の水着は黒く暗く、彼女の上半身を覆っていた。
咲羅は、せき立てる美奈子に、半ば強引に試着室に押し込められ、美奈子の見立てた水着を着けた。胸元にフリルがあしらわれた、真っ白いビキニだ。
狭い試着室の薄い空気が、胸元とお腹の皮膚の表面をじかにかすめていく。その感覚は、彼女が七歳のとき、母の下着をこっそり着けたときの、罪悪感と高揚感を呼び起こした。
「かわいい!すごく咲羅に似合ってる」
美奈子は、試着室のカーテンから顔だけを覗かせた。咲羅は茫然と、鏡に映る自分を見つめた。少女の容貌と精神に反し、体だけが成長を続けているようだった。彼女は、自分の首から下の部分が、赤の他人のものと入れ代わったような錯覚におちいった。
「本当に咲羅に似合ってるよ。それ、買っちゃいなよ」
美奈子の声で、咲羅は我に返った。咲羅は気恥ずかしくなり、おもわず上半身を両手で覆った。
結局、咲羅はそのビキニを買った。美奈子に強く勧められたことも理由の一つだが、実は、咲羅自身もそのビキニを着けた自分を、素敵だと感じていた。それに伴い、その姿を見た安藤の、自分に向けられる視線が頭をよぎり、くすぐったい気分になったのだ。
****
早朝、咲羅はいつものように美術室の前に到着した。ドアに指をかける瞬間、緊張が走る。視界が開けていき、白い光で目がくらむ。その中にたたずむ安藤を視界に捉えたとたん、彼女の胸は高鳴る。・・・・・・しかし、その日安藤の姿はなかった。
そういえばと、今日、安藤は出張のため不在であるのを思い出した。ぽっかりと、胸に穴が開いた感覚となる。それを埋めようと、咲羅は画材道具を引っ張り出し、背筋を伸ばしてイーゼルと向き合った。
習慣のように、無意識に、咲羅は触手を伸ばすようにして安藤の気配を探ってしまう。何にも触れなくて、彼が不在であるのを思い出す。この虚しい動作を数回繰り返した後、彼女は筆を置いた。あくびをしながら背伸びをした。彼がいないのは分かっているのだが、ついつい準備室に視線が行ってしまう。彼女の視界に、棚の一角におさめられた、安藤のスケッチブックが入り込んだ。気分転換を兼ね、彼の作品でもみようかと思い立った。
先日は、彼の高校時代のものを開いたので、今日は美大生のときのものを探し当てた。どことなく陰気だった、高校生のときの作品とは打って変わり、好きなことを堂々とおこなっているという喜びが、あふれ出ていた。自画像は、坊主頭から髪が生えそろえられたものに変わり、数多くの人物画は、とりわけ裸体画が大半を占めていた。芸術を志す者にとって、ヌードデッサンは人体の骨格と構造を知る上で、重要であるということを咲羅は知っていた。しかし、彼女にとって少し刺激が強かった。紙上で、あられもない姿態を展開する数々の体を、咲羅は、兄の持つワイセツ本を盗み見る少年の心境で眺めていた。
こそばゆいような居たたまらなさに伴い、咲羅はしだいに違和感を感じ始めた。大学生の安藤の作品にしては、どれも静かすぎる。大学生といったら二十歳前後だ。その年代である男性の頭の大半が、性的なことで満たされているという事実を、咲羅は一般常識として知っていた。それは単に、安藤のずば抜けた才腕のため、見る者にそのような印象を与えるだけかもしれない。しかし、やはり秘部をあらわにした女性を目前に向き合う、多感な青年の心理状態を垣間見せる要素は、まったく見当たらない。
しかし、その絵は突如、咲羅の目前に叩きつけるようにして現れた。波立つ長い黒髪の、美しい女性だ。シーツの上に横たえた体は、安心しきったように両腕を頭上に投げ出し、左右の指を絡め合わせている。濡れてきらめく瞳の先には、おそらく、確実に、愛する者を捉えているのだろう。
咲羅は、滑らかな曲線を描く、その凝脂のような肌の上を、安藤の体がまつわっていくのを想像した。その安藤の恋人と思しき女性の絵は、離散した咲羅の想念を、ある一つの形にまとめ上げた。安藤へ向かう傾斜は、父への憧憬から派生したものではなく、ゆるぎない恋心であることを明白にした。
モール内の喫茶店で二人は待ち合わせ、先に咲羅が到着し、少し遅れて美奈子が来た。
「ごめんね。待った?」
額に汗をにじませた美奈子は、白い膝丈のシャツワンピースを着ていた。近頃の派手な彼女の服装と比較すると、この日は地味である。二人はコーヒーを注文し、テーブルに向かい合った。
「咲羅と二人でショッピングするなんて、久しぶりよね」
美奈子は無意味にストローをもてあそび、アイスコーヒーに浮かぶ氷をカラカラ鳴らした。
「そうよね。及川さんは今日大学?」
「うん。サークルがあるんだって」
そう言い、美奈子は綺麗にマニキュアが塗られた指先でストローをつまみ、コーヒーを飲んだ。その動作が妙になまめかしかった。休日に美奈子と二人で会うのは本当に久しぶりである。たいていの休日、美奈子は及川と過ごす。そのことに、いくらか咲羅は寂しさを感じていた。
「そういえば、この前会った早坂さん・・・・・・」
美奈子はそう切り出した。咲羅の脳裏に、興味のない男性と手を握り合った、苦い色彩が浮かび上がった。
「彼がね、咲羅を気に入ったらしいの。メルアドを聞かなかったことを悔やんでたわ。彼に咲羅のアドレス教えていい?」
もう、勘弁してほしいと思った。
「私、誰かと付き合うとか、そんな気持ちまだないの。バイトも忙しいし」
「付き合うなんて大げさね。そんなに固く考えないでよ。ただ男友達が一人増えるだけじゃない」
「でも・・・・・・」
「ていうか、実はもう教えちゃった!ごめんね」
美奈子は甘えた声を出し、両手を顔の前で合わせ、舌をペロリと出した。
「もう!信じらんない!」
「ごめんごめん。及川さんの友達だし、私だって断れなかったのよぉ」
美奈子の声は、さらに甘ったるくなった。それに伴い、咲羅の怒りもおさまり始めた。美奈子の言うとおり、自分は固く考えすぎるのだと思い直した。
コーヒーを飲み終えたころ、ふいに美奈子が、「そろそろ見に行こうか」と、特別な目当てがあるような言い方をした。
「え、どこへ?」
美奈子はいたずらを企むように笑い、
「み・ず・ぎ・よ!」
と言い、ウィンクをした。
****
七月に入るということもあり、水着売り場は、絵の具箱をぶちまけたようなにぎやかさで彩られていた。水着の束を、熱心に、真剣に吟味している美奈子のそばで、咲羅はビキニを着けたマネキンの群を、所在なさげに眺めていた。やがて、美奈子は眼鏡にかなった一着を探し当てた。
「これよこれ!」
美奈子は興奮気味に言い、手にした水着を咲羅の体に押し当てた。
「やっぱり咲羅にぴったり!」
「ええ!私のを選んでたの?ビキニなんて着れないよ」
「だめよ咲羅。十七歳にもなって、スクール水着で海に行くなんて」
そうたしなめられ、去年、美奈子と一緒に行ったプールでの苦い記憶がよみがえった。周囲の女のこたちが弾けるような色彩に包まれる中、一人、咲羅の水着は黒く暗く、彼女の上半身を覆っていた。
咲羅は、せき立てる美奈子に、半ば強引に試着室に押し込められ、美奈子の見立てた水着を着けた。胸元にフリルがあしらわれた、真っ白いビキニだ。
狭い試着室の薄い空気が、胸元とお腹の皮膚の表面をじかにかすめていく。その感覚は、彼女が七歳のとき、母の下着をこっそり着けたときの、罪悪感と高揚感を呼び起こした。
「かわいい!すごく咲羅に似合ってる」
美奈子は、試着室のカーテンから顔だけを覗かせた。咲羅は茫然と、鏡に映る自分を見つめた。少女の容貌と精神に反し、体だけが成長を続けているようだった。彼女は、自分の首から下の部分が、赤の他人のものと入れ代わったような錯覚におちいった。
「本当に咲羅に似合ってるよ。それ、買っちゃいなよ」
美奈子の声で、咲羅は我に返った。咲羅は気恥ずかしくなり、おもわず上半身を両手で覆った。
結局、咲羅はそのビキニを買った。美奈子に強く勧められたことも理由の一つだが、実は、咲羅自身もそのビキニを着けた自分を、素敵だと感じていた。それに伴い、その姿を見た安藤の、自分に向けられる視線が頭をよぎり、くすぐったい気分になったのだ。
****
早朝、咲羅はいつものように美術室の前に到着した。ドアに指をかける瞬間、緊張が走る。視界が開けていき、白い光で目がくらむ。その中にたたずむ安藤を視界に捉えたとたん、彼女の胸は高鳴る。・・・・・・しかし、その日安藤の姿はなかった。
そういえばと、今日、安藤は出張のため不在であるのを思い出した。ぽっかりと、胸に穴が開いた感覚となる。それを埋めようと、咲羅は画材道具を引っ張り出し、背筋を伸ばしてイーゼルと向き合った。
習慣のように、無意識に、咲羅は触手を伸ばすようにして安藤の気配を探ってしまう。何にも触れなくて、彼が不在であるのを思い出す。この虚しい動作を数回繰り返した後、彼女は筆を置いた。あくびをしながら背伸びをした。彼がいないのは分かっているのだが、ついつい準備室に視線が行ってしまう。彼女の視界に、棚の一角におさめられた、安藤のスケッチブックが入り込んだ。気分転換を兼ね、彼の作品でもみようかと思い立った。
先日は、彼の高校時代のものを開いたので、今日は美大生のときのものを探し当てた。どことなく陰気だった、高校生のときの作品とは打って変わり、好きなことを堂々とおこなっているという喜びが、あふれ出ていた。自画像は、坊主頭から髪が生えそろえられたものに変わり、数多くの人物画は、とりわけ裸体画が大半を占めていた。芸術を志す者にとって、ヌードデッサンは人体の骨格と構造を知る上で、重要であるということを咲羅は知っていた。しかし、彼女にとって少し刺激が強かった。紙上で、あられもない姿態を展開する数々の体を、咲羅は、兄の持つワイセツ本を盗み見る少年の心境で眺めていた。
こそばゆいような居たたまらなさに伴い、咲羅はしだいに違和感を感じ始めた。大学生の安藤の作品にしては、どれも静かすぎる。大学生といったら二十歳前後だ。その年代である男性の頭の大半が、性的なことで満たされているという事実を、咲羅は一般常識として知っていた。それは単に、安藤のずば抜けた才腕のため、見る者にそのような印象を与えるだけかもしれない。しかし、やはり秘部をあらわにした女性を目前に向き合う、多感な青年の心理状態を垣間見せる要素は、まったく見当たらない。
しかし、その絵は突如、咲羅の目前に叩きつけるようにして現れた。波立つ長い黒髪の、美しい女性だ。シーツの上に横たえた体は、安心しきったように両腕を頭上に投げ出し、左右の指を絡め合わせている。濡れてきらめく瞳の先には、おそらく、確実に、愛する者を捉えているのだろう。
咲羅は、滑らかな曲線を描く、その凝脂のような肌の上を、安藤の体がまつわっていくのを想像した。その安藤の恋人と思しき女性の絵は、離散した咲羅の想念を、ある一つの形にまとめ上げた。安藤へ向かう傾斜は、父への憧憬から派生したものではなく、ゆるぎない恋心であることを明白にした。