溺甘豹変〜鬼上司は私にだけとびきり甘い〜

まさかここに来る気じゃ……。ハッと気がついた途端、そわそわし始めてエントランスの自動ドアの奥を眺めてはやめ、眺めてはやめを繰り返していた。こんな天気じゃなきゃ間違いなく逃げ出している。

そうこうしていると、マンションの前に一台の車が横付けした。そしてゆっくり窓が下がると、九条さんが現れた。

嘘……本当に来た。

「乗れ」

遠くて聞こえないが、口がそう動いている。ていうか、なんでうちを知っているんだろう。そんなことを考えながら逆らう勇気もない私は、横なぶりの雨の中九条さんの車へと向かう。

「何やってんだよ、お前は」

助手席のドアを開けると、目が合うなりそう怒鳴られた。

「……すみません」
「早く乗れ」
「あ、はい」

車内に雨が降り込んでいることに気がついて、慌てて乗り込むと、車内は冷房が効いていて、広々としていた。さっき満員電車で地獄を味わったせいもあり、自然と安堵のため息が溢れた。

「早くシートベルトしろ」

だがそれも束の間。真横でぶっきら棒にそう言われ体がビクッと竦んだ。もういちいち脅さないでよ。

ていうか、行くってどこへ? もしかして会社に連れて行ってくれるのだろうか?
そんなことを考えながらシートベルトを締めていると、ふと気がついた。

打ち合わせからそのまま来てくれた? 珍しくスーツなんて着ている。いつもTシャツにデニムなのに。なんだか途端に申し訳ない気持ちになって、九条さんをちらりと横目で見て、ありがとうございますと言った。

だけど九条さんは聞こえているのかいないのか、私のことなんて見向きもせず、黙って車を発進させた。
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