鉄仮面女史の微笑みと涙
「失礼します」


震えが止まらない体を気付かれないようにベッドへ歩いていき、サイドテーブルに腕時計を置いた
そしていつものようにパジャマと下着を脱ぐ
夫もその間にパジャマと下着を脱いでいて、私の腕を引っ張り、私を仰向けにしてベッドへ倒した


「え?」
「どうした?いつもと違うからびっくりしたのか?」


気付くと私の両手首は夫に押さえつけられ、夫は私の体の上に跨り、私を見下ろしていた
夫の顔は苛立っているように見える


「あ、なた……?」
「毎日毎日忙しいようだな。海外事業部の課長さん。おかげで僕にしわ寄せがきているよ。分かっているのか?」
「……申し訳ありません」
「まあいい。今日は昇進祝いに可愛がってやるよ」


夫はそう言うと私の首筋に噛み付くように吸い付いてきた
私はその瞬間全身に鳥肌が立ち、体が震えた
それは快感からではなくただの嫌悪感だ
夫はそんな私に構わず首筋に舌を這わせる
私は声が漏れないように下唇を噛む
夫は私の両手首を離さないまま、唇を身体中に這わせていく


嫌だ、嫌だ、気持ち悪い……


まだ始まったばかりだというのに、早く終わることだけを考えて耐えた
永遠に続くものではない
いつかは終わるもの
だから、耐えなければ……


しかし今日の私はいくら夫に触られようと反応する事はなかった
段々夫がイラついてくるのが分かる
私は下唇を噛んで横を向いた
苛立っている夫を見たくなかったからだ
すると、夫はまた私の両手首を信じられない力でベッドへと押さえつけた
あまりの痛さに正面を向くと、怒りに満ち溢れている夫の顔があった


「お前、僕を馬鹿にしてるのか?」
「そんなことはありません」
「じゃ何だ?そんなに僕に抱かれるのが嫌なのか?」
「そ、そんなこと……」
「夫を満足させることも出来ないなんて、本当にダメな女だな!」


大きな声で怒鳴られて体がすくむ
怖くて怖くて体が震える


「なんだ?震えているのか?だったら慰めてやろう。役に立たない妻でも慰めてやるのは夫の務めだからな」


すると夫は深く口付けてきた
私達はこの何年か、体を繋げてはいたけれどキスはしていなかった
突然の夫の行動に私はどうしていいか分からない
私の口の中で夫の舌が自由に動いていて、その感覚に嫌悪感を覚える
思う存分私の口内を堪能した夫がやっと離れた
夫は私をニヤニヤと笑いながら見下ろしている


「慰めてやったぞ。何か言うことがあるだろう?」
「……ありがとう、ございました」


私がそう言うと満足げな顔をして、やっと私の両手首を離して仰向けで横になった
私はゆっくりと体を起こしパジャマと下着を取って全裸のまま夫の寝室を出る
もうこれ以上ここにはいたくなかった
私が夫の寝室の扉を閉める時、夫が吐き捨てるように言った


「本当につまらない女だ」


私はそのまま扉を閉めて急いでバスルームへ向かった
今日は夫に最後までされていないからシャワーを浴びる必要がないかもしれない
多分、夫は私がバスルームへ向かったのが分かっているだろう
それでまた夫の機嫌を損ねるかもしれない
それでも私は夫が触れた場所を洗いたくてしょうがなかった
口をゆすぎたくてしょうがなかった
体を繋げているだけの方がまだ我慢できるなんて初めて知った
夢中で体を洗っていると、両手首に残る夫の手形に気付く
夫に押さえつけられていた感覚が蘇り必死に両手首を擦った


「落ちない、落ちない……」


はっと我にかえり、真っ赤になった手首を見る


「あなた、明日から出張なのよ。しっかりしなさい」


自分にそう言い聞かせてシャワーを終えて、自分の寝室へ戻った
ベッドへ座り大きく息を吐くと、今日はまだピルを飲んでいないことを思い出す
カバンからピルを取り出すと、小さな紙切れも一緒にカバンから出てきた
それは、今日貰った名刺


『離婚したくなったら連絡してください』


皆川部長の同級生、弁護士の柳沢先生に言われたことを思い出す


「離婚……」


私は柳沢先生の名刺を財布に入れた
この時私は初めて離婚という選択肢があることを意識したのだった
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