鉄仮面女史の微笑みと涙
夕ご飯の支度をしていると、夫が帰ってきた
私は玄関へと向かう


「お帰りなさい。あなた」
「……」


夫が無言で差し出すカバンを受け取り、自分の寝室へ向かいながら上着やネクタイを外していくのを、私は後を追いながら受け取る
加納忠司(36)都市銀行の1つであるN銀行に勤めているのが私の夫
受け取った上着やネクタイをクローゼットに仕舞い、ベッドに置かれているパンツもクローゼットに仕舞うと、私はまたキッチンに戻り夕ご飯の支度にとりかかる
テーブルの上に夕ご飯を並べ、夫が座る場所には夕刊も置く
部屋着に着替えた夫が寝室から出てきて席につくと、私も座る


「いただきます」
「……」


夫は夕刊を読みながら食事をする
会話はいつもない


「あの、あなた。お話があるんですが」
「……なんだ?」
「私、今日、人事異動の内示が出たんです」


夫は視線だけ私に向ける


「へえ、どこに?」
「海外事業部の第3課です」
「肩書きは?今と同じで係長か?」
「いえ、課長です」
「ふ〜ん」


夫は夕刊を置き、私をじっと見た
私はそれだけで緊張する


「君みたいな人間を海外事業部に配属するなんて、F社は大丈夫なのか?しかも課長なんて。君に務まるのか?」
「……私もそう思います」
「海外事業部もよっぽど困っているんだろうな。ま、せいぜい周りの人達に迷惑かけないようにしてくれよ。君が何かしでかして問題になれば、恥をかくのは僕なんだから」
「はい、気をつけます。それと……」


まだ何かあるのか?と夫は私を見る


「海外事業部の部長に言われたんですが、今まで以上に残業や出張が増えるそうです。なので、あなたにも迷惑をかけるかもしれません」
「それは君の問題であって、僕の問題ではない。今まで通り、君が家のことをちゃんとすればいいことだろう」
「はい」
「まあでも、君が残業や出張でいないときは、しょうがないから自分の食べる分ぐらいは自分でやるよ」
「……はい。ありがとうございます、あなた」


この話題は終わりだとばかりに、夫はまた夕刊を見ながら食事を再開した
私もそれを見て、おかずを口に運んだ
味は全然分からない
いつからか、私は料理を味わうこともしなくなった
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