鉄仮面女史の微笑みと涙
そう言って私の頭を撫でる母に、私は涙を堪えながら笑った


「お母さん、いつ帰るん?明日?ホテル予約しちょんの?」
「今日帰るで。お父さん1人で置いて来ちょんに、一泊も出来んわ」
「え?何時の飛行機なん?」
「17時半ぐらいやなかったかねぇ?」


時計を見たら、もうすぐ16時になろうとしている
他のみんなも、え?という顔をしていた
母の話をよく聞いたら、午前中にはこっちに着いていたらしいのだが、会社に着くまで何時間も迷ったらしいのだ


「迷ったら迷ったち、何で連絡せんの?もう空港行かんと間に合わんやん!」
「仕事中に電話したら迷惑やろかち思って……」
「空港まで送るけん。行くよ」
「ちょっと待って海青。お母さん、柳沢先生にお礼言わんと帰れんで!」
「何、言いよんの。そんな時間ないわ」
「何、言いよんの。あんたが一番お世話になったのは先生やろうがね?」


飛行機の時間を変更してもらおうかとも思ったが、多分母は17時半の飛行機で帰ると言い張るだろう
しかたなく私は先生に電話をかけた


『はい、柳沢です』
「F社の高橋ですけど……実は、今、母が会社まで来てて、、17時半の飛行機で帰るっていうのに、先生にお礼が言いたいって言ってて、電話で悪いんですけど、母と話してもらっていいですか?」
『え?お母さん?17時半の飛行機?』


流石の先生もびっくりしているようだったが、先生は気を取り直して言った


『空港まで車で送るよ。会社なんだろ?俺も今事務所にいるし、すぐにそっちに行く」


そう言って、先生は電話を切ってしまった
私はどうしようと思って母を見た


「先生、何ち?忙しかった?」
「いや、先生が車で空港まで送ってくれるって」
「そんな図々しいこと出来んわ!」
「でも、もうこっちに来よんわ、多分。迷っちょん暇ないけん、行くよ、お母さん。車の中で先生と話せるし」
「でも」
「それに、お父さんにお土産買わんとお父さん拗ねてしまうよ?先生の事務所、ここから近いんよ。もうすぐ着いてしまうけん、行こう」


母を急かして支度をさせる
私も慌ただしく支度をして部長に言った


「部長、すいません。母を送ったらすぐに帰ってきますから」
「いや、今日はもう直帰していいから」
「でも」
「早く行かないと、柳沢が来るぞ」
「はい。ありがとうございます」


みんなに挨拶して母と会社を出ると、先生はもう着いていて、私と母は先生の車の後部座席に乗り込んだ


「先生、わざわざすいません。ありがとうございます」
「いいえ。羽田でいいんだろ?」
「はい」


先生が車を出発させると、私と母はふうっと息を吐いて、シートに体を預けた


「なんか皆さんに迷惑かけてしもたねぇ」
「本当やわ。お母さんが急に来たりするけんやろ?会社の人達だけやなくて、先生にまで」
「あっ、先生にお礼言わんと!先生、この度は娘が大変お世話になりました。つまらんものですけど、これ食べて下さい」


そう言って母は運転中の先生に魚の干物を渡そうとしている
先生は苦笑しながらありがとうございますと言って受け取ってくれたが……


「お母さん、先生運転中なんよ?今渡されても迷惑なだけやんか」
「だって今渡さんといつ渡すんよ?」
「じゃ、事故ってもいいんね?」
「そりゃ困るわ」


私達の会話に先生が吹き出した


「ほら、先生にも笑われてしもたやんか」
「それもこれも、あんたが連絡もせんで帰って来んかったけんやろ?年に何回か会っちょったらお母さんだって1人でこんな大都会に来ようとは思わんかったわ」
「それは……」


それを言われると本当に何も言えない
私がそのまま何も言えないでいると先生が口を開いた


「まあまあ、これからは娘さんも連絡したり、帰ったりすると思うんで、その辺で勘弁してやって下さい。それにしても、何で突然来られたんですか?」
「先週、娘から電話があって、声を聞いたら顔が見たくなったんですよ。で、やっと今日都合がついたんで思い立って来たのはいいけど、迷ってしまってねぇ……」
「それは大変でしたね」
「でも、会えて良かった。先生、本当にありがとうございました。今、この子が住んでる家も先生にお世話になったそうで。本当になんてお礼を言っていいか」
「いいえ、気にしないで下さい」


母はちょっと疲れたように、またシートにもたれた


「お母さん、お父さん元気なん?この前電話した時は居らんかったけど」
「ああもう、元気も元気やわ。あんたから電話があったち言ったら、『なし呼ばんかったんかー!』ち言うて、お母さん怒鳴られたんよ?携帯も持っとらん、どこに行くんかも言わん人を、どうやって呼べばいいんか教えて欲しいわ」
「お父さん、相変わらずやねぇ」
「海青、お父さんも会いたがっとるよ?今度はいつ帰るんね?」
「しばらくは無理かもしれんけど、ちゃんと帰るようにするけん」
「そうね。お父さん、喜ぶわ」


そんな会話をしていると空港に着き、私と母だけ降りて、先生は駐車場に車を置きに行った
母と2人でお土産を選び先生と合流して、後は手荷物検査を受けるだけ
私が行けるのはここまで


「じゃ、お母さん、もう行くけん」
「うん」
「先生、本当にありがとうございました」
「いえ、気をつけて帰って下さい」
「海青」
「ん?」


母は私を抱きしめた


「ちゃんと、ご飯食べるんよ?」
「うん。分かっちょん」
「電話もするんよ?」
「うん」
「じゃ、行くわ」


母は私の顔を見ようとせず、そのまま行こうとしたので、私は慌てて声をかけた


「お母さん。来てくれてありがとう。会えて嬉しかった。体に気をつけて」



母はそのまま私の顔を見ず、手を振って行ってしまった
本当に嵐のように来て、嵐のように帰って行った母
大分県からほとんど出たことがなかった母が、1人で私の所に来るのにどれだけ勇気がいったんだろう
それを思うと涙がこみ上げていて、その場を動けなかった


「高橋さん」


見上げると優しい笑顔の先生がいる


「良かったな。お母さんに会えて」
「……はい」


そう返事するのが精一杯で私は俯いて涙を我慢することが出来なかった
先生はそんな私に優しく寄り添っていてくれた
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