鉄仮面女史の微笑みと涙
「失礼します、社長」
「おお、来たか」


部長と私が社長室に入ると、社長はデスクから立ち上がって、デスクの前にあるソファーに座るよう、私達を促した
社長が私達の前のソファーに座ると、私達も座った


「社長、彼女が今日からうちの第3課課長になった、加納海青さんです。加納課長、知ってると思うけど、こちらが社長」
「おいおい、皆川部長。そんな紹介はないだろう。加納課長、よろしく」
「よ、よろしくお願いします、加納です」


私が緊張しているのが分かるのか、2人は私を可笑しそうに見ていた
この目の前にいるのが、吉田哲也社長
歴代最年少で社長に就任したかなりやり手の人だ
皆川部長を『鬼の皆川』に育て上げた人でもある
いつもは、遠目からしか見ることがなかった社長が目の前にいる
それだけで、私はこの場から逃げ出したくなる


「それにしても、加納課長が海外事業部に異動になると内示が出たとたん、他部署の部長達からあんなにクレームが来るとは思わなかった」
「ええ、私も嫌味を言われますよ。『よくも引き抜いてくれたな』と」
「えっ?あの……」


2人が何を話しているのか分からなかった
なんで私が海外事業部に異動になったことがそんなにクレームや嫌味を言われなければならないのだろうか?


「君の情報管理部での仕事振りは、私の耳にも入っていたんだ。他部署の社員も君が作った資料なら絶対の信頼を寄せていたみたいだよ。現に君が作った資料を私も目にすることもあったからね。私の秘書の進藤課長、もうすぐ出産のため退職するだろう?その後任に君をと思っていたら、皆川部長に横取りされた」
「横取りとはひどいですね。たまたまタイミングが合ったんですよ」
「君も聞いただろ?皆川部長は永井課長から君を推薦されるまで、君の仕事振りは知らなかったんだ。私は知ってたというのに」
「……それは、私の不徳の致すところです。認めますよ」
「私より後に君のことを知ったのに、君を横取りされたんだ。実に悔しいよ」
「何を子供みたいなことを」


お互いに言いたいことを言い合っている2人を呆然と見ていた
いや、それより、私のことを社長が知っていたということが信じられなかった


「どうした?加納課長。今私と皆川部長が言ったことが信じられないと思っているのか?」


私はびっくりした
私は感情が表に出ない
私が信じられないと思っていることを言い当てたのだ


「はい。正直、信じられません」
「何故?」
「私が情報管理部でやっていたことは、ただ、依頼された資料を分かりやすく、正確に、早く作ることです。あと、新しいデータを正確に、誰が見ても分かりやすく打ち込むことです。本当に、他部署の仕事と比べても地味な仕事だと。だからと言って、情報管理部の仕事が簡単な仕事だとは思っていませんが」
「確かに情報管理部がなければ、この会社は回らない。縁の下の力持ちのような部署だからな。だが情報管理部の仕事はは決して表に出ることはない」
「そうなんです。だから……」
「でも、見てる人は見てるんだよ」
「え?」


私が社長を見ると、社長はニヤっと笑って言った


「情報管理部からあがってきた資料が非常によく出来ている。誰が作ったんだろうと思って見てみると、大抵君が作った資料だというのが分かる。それが何回も繰り返される。それで思うんだ『情報管理部の加納海青に任せていたら問題ない』ってね。少なくとも私にクレームを言ってきた部長達はそう思ってたんじゃないかな?」
「さっき進藤課長も言っていただろう?『君を指名して依頼していた』って」



私は唖然とした
というか、2人が言っていることの意味が分からない
そんな私を無視して社長はまだ続ける



「進藤課長だけじゃない。情報管理部もやっかいな仕事は君に頼むようになった。他のメンバーには簡単な仕事を。それは、情報管理部にとってあまりいい状況ではないと判断した」
「え?」
「この状況が続くと、簡単な仕事しかしない他のメンバーはレベルが落ちる。はっきり言って君に頼り切っている状況だ。そうなってしまった後に君が抜けるとどうなると思う?情報管理部のレベルが落ちる。さっきも言った通り、情報管理部は会社の縁の下の力持ちのような存在だ。ということは、F社全体のレベルが落ち兼ねない。それは社長としても放っておく訳にはいかない」



私個人の話をしていたはずなのに、いつのまにか会社全体の話になっている
私はだんだん頭がクラクラしてきた


「それで僕が社長に直談判したんだ。『加納係長が情報管理部に配属されてまだ3年。まだ間に合う。だから、海外事業部に異動させてくれ』ってね」
「そうなんだ。私は皆川部長に脅されたんだよ。怖いだろ?」


そう言って笑う2人に、私は自分のことを話しているのが分かっているのに他人事のようにしか思えなかった
だって私は、何も取り柄がない、何をしてもダメな、そんな女だから……私みたいな女が、なんで……
私は俯いて、下唇を噛んだ


「加納課長、どうした?大丈夫か?」


社長に声を掛けられて、ハッと顔を上げると社長はにっこり笑って言った


「君なら海外事業部でもやっていけると信じてる。分からないことがあればなんでも他のメンバーに聞けばいい。みんないい奴ばかりだから」
「はい。そうします」


私がそう答えると社長は満足そうに頷いた


「よし、じゃあ加納課長は戻っていいぞ。わざわざ来てもらって悪かったね」
「いえ、じゃ失礼します」


私と皆川部長が立ち上がると、社長は皆川部長を呼び止めた


「皆川部長、私は加納課長に戻るように言ったんだ。君には言ってない。ここに残ってたまには取締役の仕事をしろ」


社長は指でソファーに座れと皆川部長に命令していた
皆川部長は肩を竦めて私に戻るように促すとソファーに座った
私はそれを見て、会釈すると社長室を後にした
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