揺蕩うもの
 紗綾樺さんの歩みはゆっくりとしていたが、確かに学校の場所を知っている人の歩き方だった。それは、普通の人が通る大通りを通らず、子供たちが良く使うであろう通学路を少し逸れた近道となる細い道を迷うことなく学校へと向かっていたからだ。
 たぶん、他の人から見たら、彼女が初めてこの場所を訪れたとは信じられないくらい確かな歩調だった。
 紗綾樺さんは時々立ち止まり、壁や木に手をついて瞑想しているように見えた。
 時にはすぐに歩き出し、時には苦痛に耐えるように顔をゆがめながら、しばらくその場に立ち尽くしたりもした。
 『そうか、紗綾樺さんの顔色が悪くなるのは、苦痛のせいなんだ』と、少しずつ顔色が蒼くなっていく紗綾樺さんを見つめて僕は思った。それでも、距離を置いてくれと言われているので、僕には紗綾樺さんの事を離れて見つめる事しかできなかった。

 学校の壁に手をついてしばらく瞑想した紗綾樺さんは、糸の切れた操り人形のように、その場に再び膝をついて座り込んだ。
「紗綾樺さん!」
 僕は慌てて走りよると、紗綾樺さんの体を抱き寄せた。
「すいません。・・・・・・この地の気が荒くて」
 紗綾樺さんは、僕の事を気遣うように言った。
 実際、説明されても『地の気が荒い』とどうなるのか、自分には全く理解できなかったが、少なくとも力を使う度に紗綾樺さんに激しい苦痛が伴うのだという事を僕は痛いほど理解した。
 そう、あんなに紗綾樺さんのお兄さんが心配したのは、僕のような何も知らない他人が、紗綾樺さんの力を頼みにして、どれ程の負担が紗綾樺さんの体や精神にかかるかも顧みず、無責任な頼みごとをして紗綾樺さんに力を使うことを強要することだったのだと、僕は痛いほど思い知らされた。
 あの占いの館で、何もないようにして占いを行っていた姿から、紗綾樺さんが難なく力を使うことができるのだと勘違いした愚かな自分に、僕は自分で腹さえ立ってきた。
「大丈夫です。すぐに立てるようになります」
 紗綾樺さんの言葉は、このような症状がいつものことだと教えてくれた。
 紗綾樺さんには、縁もゆかりもない崇君の非公式な捜査依頼を受けるという事が、眩暈や、貧血、痛みと言った色々な苦しみを自分にもたらすことだと知りながら、協力してくれたのだと、僕は気付くとともに、更に激しく後悔した。
「申し訳ありませんでした」
 僕は腕の中で力なく体を預けている紗綾樺さんに謝罪した。
「僕は、もっと簡単に考えていたんです。あの占いの時みたいに、ほんの数分で、何もかもわかるんじゃないかって。こんな風に、あなたが苦しむのだと分かっていたら、お願いしたりしませんでした」
 血の気の引いた蒼い顔を見れば、全てが苦痛以外の何物でもないことは、誰の目にも明白だった。
「大丈夫です。・・・・・・崇君の家のそばに連れて行ってください」
「紗綾樺さん、自分には、これ以上あなたの苦しむ姿を見て居られません」
 僕は自分の気持ちを偽ることなく伝えた。
 すると、紗綾樺さんは僕の腕に手をかけて僕の顔をまっすぐに見上げた。
「探させてください、私に・・・・・・。私に、死体ではなく、生きている崇君を私に見つけさせてください」
 その瞳には強い意志が込められていた。
 細く華奢な体からは想像もできないくらい強い意志が・・・・・・。
「車で近くを走ります。それで良いですか?」
 僕がダメだと言っても、駐車場から学校までの道が分かった紗綾樺さんなら、自力で崇君の家にたどり着くことができる。ここで言い争うよりも、紗綾樺さんが自力で目的を達成するのではなく、体力を温存できるように、そして今みたいに外で倒れそうになることを防ぐことができるように、車で移動するという妥協案を承諾してもらえるように祈るほかなかった。
「そうですね。今日は、家の前を通ってもらえれば、それでいいです。お家を訪ねたり、ご家族や知り合いに会う必要はありません」
 なんとか紗綾樺さんの合意を得ると、僕は再び紗綾樺さんを抱き上げた。
「あの、恥ずかしいです」
 街中で抱き上げた時は、ほとんど意識がなかったので抵抗がなかったのだろうが、紗綾樺さんはお姫様抱っこされたことに顔を赤らめていた。
「今日、二回目です。今更、恥ずかしがらないでください」
 僕が言うと、紗綾樺さんの顔はさらに赤くなり、両手で顔を覆ってしまった。
「できたら、手を僕の首の後ろに回してつかまってください。落ちて怪我しないように」
 紗綾樺さんは、おっかなびっくりといった感じで、僕の首に手を回した。
「走りますから、口は閉じていてください」
 僕は言うと、紗綾樺さんを抱いて駐車場まで走り続けた。幸運にも、誰ともすれ違うことなく、僕たちは車まで戻ることができた。
 車のロックを解除するのももどかしく、僕は紗綾樺さんを助手席に座らせた。
 それでも、苦しそうな紗綾樺さんの顔色は少しも良くならなかった。
「大丈夫です」
 心配する僕の心を読んだのだろう紗綾樺が尋ねもしないのに答えた。
「近くに車を止めると、職質をかけられる可能性があります。走り抜けますが、それで良いですか?」
 念のため、僕は紗綾樺さんの確認を取る。
「はい。大丈夫です」
 紗綾樺さんの答えを聞いた僕は、住宅街の制限速度をかなり下回るゆっくりとしたスピードで崇君の家へと向かった。
「この道で崇君は通学していたと思われます」
 尋ねられていなかったが、少しでも紗綾樺さんの役に立てばと、説明を続けた。
「ここを右に曲がって・・・・・・」
「大丈夫です。見えます。崇君が歩いているのが」
 紗綾樺さんの声は、僕の言葉が邪魔になっていることを伝えていた。
 半ば閉じかけた瞳で紗綾樺さんは僕には見えない崇君を見ているのだと、僕も気付いた。

☆☆☆

 普段ならば絶対にしないことだったけど、私は思い切って心の扉を全開にした。
 一気に隣の宮部の心だけでなく、周辺の住宅の住民、近くの道路を歩いている通行人、路地に車を止めて不審者を警戒している警察官達の意識、そして普通の人には見えないし聞こえないモノたちが私の中に流れ込んできた。
 厄介なのは、事件のことを知っている警察官の記憶だ。思い込みによってゆがめられた記憶が私の判断を鈍らせる事がよくある。だから、人の記憶は当てにならない。でも、それ以外のモノたちの記憶は役に立つ。
 私は崇君の情報を求めて意識の中を彷徨った。
 大量の意識と記憶を相手にしているせいで、自分自身が体から離れてしまいそうになる。でも、これ以上体からかはなれるのは危険だ。それこそ、意識を失って病院にでも運ばれたら大事になる。
 注意深く、体に自分を繋ぎ止めながら崇君に関する記憶を探す。
 大きな光がはじけるように、あふれる光の中に崇君の姿が浮かび上がった。
 ああ、母さんの想い出だ。愛にあふれて、崇君のことを探している。覗いている私の胸が温かくなるくらい、お母さんの愛は深い。
 崇君の記憶を探している私に語りかける意識があった。
『さがして、はやく。』
 目の前に赤い花びらが舞う。
『あの子をさがして、早く。』
 椿の木だ。
 次の瞬間、ねっとりとした闇の固まりに飛び込んだ私は、恐怖で心を一気に閉ざした。
 体の感覚は戻ってきていないものの、全身が嫌な汗でべたついているのがわかる。
 瞼は重く、開こうとしても持ち上がらない。全身の感覚が戻ってくると、全身が軋むような痛みに襲われた。
 これだから、力は全開にするものじゃない。
 見たくなかったものも、聞きたくなかったことも、今は全て私の中に記録されてしまった。記憶なら改竄できても、記録は改竄できない。どんな醜いものも、汚いものも、記録されてしまったら、私はそれと共に生きていくしかない。
 悔やんでも、いまさらなかったことには出来ない。
 痛みに慣れ、諦めがつくと、やっと瞼が持ち上がった。
 目の前の風景は動いておらず、コンビニのまぶしいほど明るい看板が目に痛い。たぶん、私のことが心配で宮部が車を止められる場所を探してここに来たに違いない。
 シートは限界まで倒されているので、他に見えるのは人口の光にかき消された星空くらいだ。
 その時になって、隣に宮部が座っていないことに私は気付いた。
『お前、差し入れのためにわざわざこんなとこまで来たのか?』
『ちょっと用があって、近くまで来ただけです。』
『本当か?』
『本当ですよ。』
『差し入れなら歓迎だったのに。』
『すいません、連れの気分が悪くなって寄っただけです。』
『なんだよ、デートか?』
『ノーコメントです。』
『ったく、いいよな、相手がいる奴は。しっかり励めよ。』
 私の知らない警察官の頭の中に、露骨に卑猥なイメージが浮かび上がった。
 いけない、閉じたはずが、閉じきっていなかったのか・・・・・・。いや、それとも、私の中の力が閉じ込められなくなっているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、車のドアーが開き、宮部がペットボトルに入ったお茶と紅茶を持って戻ってきた。そして、私が目を開いているのを見ると、一気に気まずそうな表情を浮かべた。
「すいません。あの人、悪気はないんです」
 宮部の言葉の意味がわからなかった私に、彼は更に言葉を継いだ。
「すぐに、励めとか卑猥な事言う人なんですけど、悪い人じゃないんです」
 その言葉から、さっき会話していた相手がいやらしい妄想をしていたことに対してのフォローだと理解した。
「大丈夫です。慣れてますから」
 私は良く考えもせずに答えたが、宮部の顔はすごく申し分けそうなままだった。
「あの、温かい飲み物が良いかとおもって、お茶と紅茶を買ってきました」
 二本のペットボトルを差し出され、私は紅茶のボトルを受け取った。
 普通ならお茶がいいのだが、ここまで力を使うと、エネルギーが足りなくなって甘いものが欲しいと体と脳が訴えてくる。
「もし、甘すぎたら言ってください。こっちのボトルは開けずに置きますから」
 紅茶を飲み下す私の姿に、宮部は少し安心したようだった。
「ミルクもお砂糖も入っているし、少しは紗綾樺さんが元気になるかと思ってミルクティーにしたんですけど、甘すぎるかなって心配になって、それでお茶も買ってみました」
 宮部の優しさはうわべだけでなく、本当に心根の優しい人間なんだと、私は改めて思った。
「お家まで送りますね」
 少し寂しげに言う宮部の心は、既にがっちりとガードされていて、彼が何を考えているかを読むことは出来なかった。
「家に帰る前に、どこかゆっくりとお話の出来る場所に連れて行ってください」
「でも、お兄さんが心配されるでしょう?」
 宮部の言う事は最もだ。私は、兄の電話に遅くならないと返事をした記憶がある。それでも、今日見たり聞いたりしたことを宮部に話す必要がある。
「いえ、手遅れになる前に、きちんと話しておきたいんです」
「わかりました。じゃあ、着くまで紗綾樺さんは休んでいてください」
 宮部は言うと、残ったお茶のボトルを私に手渡し、自分はろくに休憩もしないまま車を走らせ始めた。

 どこに行くのかわからないドライブだったが、宮部が私をいかがわしいところに連れて行く心配もなかったし、安心感からか、宮部の流れるような運転技術のせいか、気付けば私は再び眠りに落ちていた。
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