主さまの気まぐれ-百鬼夜行の王-③ 
その輝夜の呟きは、地下の花の耳に届いていた。

それまで置物のようにじっと座っていた花はすっと立ち上がり、檻を掴んで――その名を口にした。


「下弦」


――こうして口にして名を呼ぶのはどの位ぶりだろうか。

自分はこうして話すのをやめたのに。

話してはならないのに。


だが、愛しい人が今すぐ近くに居るのが分かる。

それは長年…ここに居座ると決めた時からずっと待ち続けていた僥倖の時。


「下弦…!」


――もう一度その名を強く呼ぶと、地下に降りてくる者の足音がした。

その者が醸し出す雰囲気――息遣い…やはり――


「花…」


「…下弦…」


理性が働いた。

“名”以外呼んではならない…呼んでしまうとどうなるか位、分かっている。

現れたのは小さな人影…いや、その小さな子の身体を借りた下弦の姿がはっきりと見えた。

とても強かったその男はとても気性が優しく、とてもとても弱い男だった。


「花…やっと会えたね」


その手には下弦が書き遺した書物。

そして下弦…いや、輝夜の背後には、一挙手一投足見逃さぬよう抜身の刀を手にした主さまと油断なく間合いを縮めている雪男の姿が在った。


「輝夜、それ以上近寄るな」


「…私は今この者の身体を借りています。私の魂はもうすぐ…」


「下弦…」


花に名を呼ばれるとにこりと微笑み、花の前で膝を折ってその姿を見上げた。


「もうすぐだよ、花…」


「…下弦…」


「もうすぐだ…。どうしてもそれを伝えたかった。待っていて、花」


「…はい」


花がうっとりするような笑みを浮かべると、輝夜はこと切れたように身体から力が抜けて倒れ込んだ。

主さまがすぐ抱き起して花をものすごい形相で睨みつけた。


「…何をした!?」


「…」


もう話さない。


もう、彼がここに現れるまで――話さない。
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