さまよう爪
絶句した。

『明日の夜にお通夜で、明後日の昼にお葬式だって。で、あたしはでないから、あんたが代わりに行ってきて』

お葬式だけでいいから。ね?

ね。って、そんな急な。何より。

「……ちょっと待って。わたし、父親なんて覚えてないんですけど」

『鎌倉のあたしの家まで来てくれたら、斎場までの地図を渡すから。あんた、会社休めるわよね』

どこまでも身勝手な母親の言い分だったが、わたしは溜息をついて、行く。と返事した。

ちょっとなあに? その返事。不機嫌になる声。

『……あんたの会いたい人にも、会えるかもしれないわよ』

ブツブツと言う母。

ドキリ。わたしの心臓が鳴った。

「え、なに。それって、どういうこと。ねぇ」

もっと詳しく聞きたかったのに。

そこからが大変だった。

突然、息せき切ったように、母親が泣き出したのだ。抑えていたものが一気に噴出したかのように声を上げて。――ヒロシさんヒロシさん。愛してた。愛してる。

途中、あまりの感情の吐露で激しく咳き込む。

正直反応に困るし、鬱陶しい。うるさいな。言葉を飲み込んでそっと息を吐いて目を開ける。

「……そんなに愛してたんなら何で別れたの」

ずっと一緒にいればよかったじゃん。あ、やっぱりお金?

つい、そんなことを言ってしまったら、

バカ! 

少し声をはりあげる母親。

『愛しい人の名前と、愛してる。っていうのは相手が聞こえなくなったときに数え切れないくらい伝えたくなる言葉なのよ』

あんたにはまだわからないだろうけど。

どんな状態でもいつもの余計な一言は忘れずに。

ブチリと電話を切られてしまった。

爪の色を落とすような気分では、もうなくなっていた。

「……」

もう一度息を吐く。

スマホを持ち直すと瀬古さんへLINEを入れる。

明日、お会いできませんか?

お話ししたいことがあるんです。

返信は秒で。

はやっ!

いいよー

短いその返しからは、穏やかな彼の声が聴こえてきそうだった。
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