伯爵令嬢シュティーナの華麗なる輿入れ
(そうよ。わたしらしく楽しく過ごすの。美味しいものを食べて、町を見て、色々なものに触れて、そして)

 ひとりの世界に入り込みそうになったとき、サムの声に気持ちを戻された。

「じゃあ、俺が攫ってしまってもいいということですね」

「え?」

 サムは店内にすっと視線を走らせたかと思うと、テーブルに片膝を乗せてシュティーナに寄った。そして、顎に指をかけて上を向かせる。

「放置されたあなたは、じゃあ誰のものでもない。俺が奪っても構いませんね」

「は? え?」

 次の瞬間、青空色の瞳が視界いっぱいになったかと思うと、温かいものが唇に触れた。紅茶の香りがした。

「なっ……なっ!」

 シュティーナから顔を離すと、サムは何事も無かったかのように自分の椅子へと戻った。シュティーナは、顎がガクガクして止まらない。

「誰も見ていない。この席は柱の影になっているから、心配しなくても大丈夫」

「いまのっなっなっ」

(そ、そういうことではなくて!)

「いまっそのっ……わたし、はじめて……」

 狼狽えるシュティーナを見て、自分に親指を当てて魅惑的に微笑むサム。

「初めてを奪ってしまいました。もうその唇は俺のものです」

(ちょっとこのひとなに言っているか分からない)

 シュティーナは顔から火が出そうだった。サムを正面から見ることができない。椅子から立とうと思った瞬間「うわ」と、窓を見たサムが魔物でも見たような顔をした。

「……大丈夫じゃなかった」

 窓に顔をはり付けて、白目をむいている眼鏡をかけた魔物が居た。いや、イエーオリだった。

「イ、イエーオリ!!」

「見られちゃった」

 軽く言うサムはさほど危機感を持っていない様子だった。イエーオリが窓から顔を剥がし、素早く移動した。店に戻ってくるのだ。あの様子ではきっと烈火の如く怒られる。

「怒った?」

「い、いえ、わたしは怒っては……驚いてしまって」

「怒ってないのなら、俺は」

 そこまで言って立ち上がったサムは険しい顔をして動きを止めた。彼の背後にイエーオリが立っている。シュティーナは、サムの腰に当てられた短剣の鈍い光を見て、息が止まった。

「いまお嬢様になにをした。ここで死にたいのか」

 長身のふたりが重なって窓側を向いているから、ホールからは背中しか見えないだろう。まさか料理人が短剣を突きつけられているとは思うまい。

「お嬢様至上主義の家令殿。どうかお許しを……ひとの目もあります」

「貴様」

 短剣を突きつけられサムも腹を立てたのか、謝罪しているように見えるが、まるでイエーオリを挑発するようにそんなことを言う。イエーオリは更にサムへ体を押しつけた。短剣が刺さってしまうのではないかとシュティーナは気が気ではない。イエーオリは有能で冷静な人物だ。けれど、いまこの場でシュティーナを守るためにはなんでもやりそうに見えた。警告と威嚇のためにやっているのだとは思うけれど。

「イエーオリ! やめて!」

 シュティーナは小声でイエーオリを止め、彼の腕に手をかけた。こんなところで乱闘騒ぎはごめんだった。青葉の祭り中、どこで誰が見ているか分からない。それに、二度とここへ来られなくなってしまう。

「このままこの男を捕らえます」

 イエーオリの眼鏡がギラリと光った。

「ちょっと、やめて。彼はなにも悪いことはしていないわ」

「しかし、シュティーナ様に」

「なにも、していないわ」

 毅然と答えたつもりだった。しかし手が震えてしまう。

「お嬢様!」

 眼鏡の奥で怒りと心配が混ざったような目を震わせるイエーオリに、シュティーナは静かに懇願した。

「お願いだから、怒りを静めて。このまま帰りましょう。お店にも迷惑がかかる。それに、騒ぎを起こしたらお祭りが台無しよ」

 シュティーナは涙を浮かべた。

「ふたりとも、お願い」

 全身に力が入っていたイエーオリは、すっと短剣を収め、シュティーナはほっとした。

「シュティーナ様。帰りますよ」

「ごめんなさい。サムも……」

 サムに話しかけようとしたシュティーナは腕をイエーオリに掴まれて、出口へ引っ張って行かれた。

「い、痛いわ!」

 抗議の声を上げるも、イエーオリは黙って歩いていく。後ろからサムが追いかけてきた。青空色の瞳は真っ直ぐにシュティーナを見ている。

「シュティーナ。また会えるだろうか」

「サム」

「身の程を知れ。この方はスヴォルベリ伯爵令嬢だぞ」

 イエーオリに間に入られ、最後の会話はできなかった。

 店を出て青空のした、広場を真っ直ぐに通り抜ける。花弁が舞い、人々の笑い声が響く。シュティーナの首に巻かれたスカーフが風に流され外れた。

「あっ」

 シュティーナは手を伸ばしたが、イエーオリが気付かないから取りに戻ることも叶わなかった。手を伸ばした先に、サムの姿が小さく見えた。


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