千の春
「黒い髪。癖っ毛で、切れ長の目。ズボンはチェック柄で、紺と黒」
「・・・・何」
「たまに、君を見てるんだ。彼、妙音さまのお気に入りのうちの一人だから。月の裏側でピアノを弾いてるところを見たことがある」
「わけがわからない。頭大丈夫?」
「俺は音楽の良し悪しはわからないけど、妙音さまが気にいるんだから彼の演奏は人並み外れたものなんだろうね。神様が気に入って、連れてっちゃうくらいの、すごい演奏」
神様が気に入って。
連れてっちゃうくらいの、すごい演奏。
日向の言葉のその部分だけが岬の頭に残った。
千春。
千春だ。
高校生の時の姿の千春が、いると言っているのだろうか、日向は。
青いラインが入ったシャツ。
チェック柄のズボン。
岬と千春が通っていた高校の制服だ。
岬の口が歪む。
死人が見えるとか、神様とか、妙音さまとか、信じるのも馬鹿らしいことばかり言う男。
けれど、岬がそこを動けないのは、ひとえに千春のせいだった。
あの男が、好きなだけ岬の闘争心を煽っておいて、いなくなってしまったから。
不完全燃焼のまま終わった関係が、未だに岬の心の一部にひかかっていた。
「・・・・知らない」
岬の口から出たのはそれだけだった。
日向が目をみはる。
大方、岬がしらばっくれるとは思ってなかったのだろう。
なんらかの話はしてくれると期待していたはずだ。
けれど岬はそこまで素直ではなく、また、自分の中のわだかまりを解消する必要性も感じてなかった。
決着のつかないまま、いや、ずっと先を歩いていたまま、居なくなってしまった千春。
超えられなかった悔しさと、あの時感じた才能への尊敬は、このままずっと持っていようとすでに決めていた。
20歳の岬は、迷う時期はとっくに通り過ぎていた。