【長編】戦(イクサ)林羅山篇
亀の死
 その後、道春は春斎、春徳、春
信を連れて三使の滞在している本
誓寺に度々出向き、詩などを交わ
して友好を深め、林家への評価を
高めることに努めた。三使にとっ
ても林家が幕府の窓口になれば交
渉がやり易い。お互いの利害が一
致して成果を上げた三使はホッと
した。その数日後、朝鮮通信使は
戻っていった。
 道春らも大役を務めたことで褒
美が与えられ、亀の容態に不安は
あったが充実した一年を終えた。

 明暦二年(一六五六年)
 一時は快方に向かっていた亀の
容態が日増しに悪化して三月二日
に息を引き取った。道春の悲しみ
は深く、そのため葬儀は春斎が喪
主となり、亀の生前の遺言により
儒教の葬礼で行われた。そして上
野の別邸に葬られた。
 しばらくして振らが京に戻り、
道春は春徳の家族と共に暮らして
はいたが、亀という大きな存在が
いなくなって広く静かになった邸
宅で悲しみは増していった。
 時々、春斎の家族がやって来て
賑やかになると次第にもとの道春
にかえり前にも増して勉学に打ち
込んだ。そして八月には十四歳に
なった春斎の長男、春信と一緒に
江戸城に登城して家綱に拝謁し
た。
 家綱は十六歳で春信とはあまり
年が離れていなかったこともあ
り、話し相手が出来たことを喜ん
だ。しかし補佐役の保科正之は家
綱が教養を身につけ、学問により
天下を治める武士の手本とした
かった。そこで十二月に道春を呼
び、家綱に「大学」の講義をする
よう命じた。また、道春の補佐を
よくこなしている春徳に春斎に続
いて法眼の位を授けた。
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