ハニートラップにご用心

Side:土田恭也


長らく使っていなかった、スマートフォンにデータとして残った電話帳の三ページ目をスクロールして、その一覧の中にある一つの名前を見つめる。

情けないことに、自分で選択して決めたことなのに酷く手が震える。

俺は昔から何も変わっていない。臆病で逃げていてばかりの卑怯者だった。素直で真っ直ぐなあの子の隣に立つのに恥じないよう、変わりたいと思ったのにこのザマだなんて。


「遅れてごめんなさいね」


長らく聞くことのなかった、懐かしい声が突然背後から聞こえてきて思わずスマートフォンを取り落とした。


「こんな所に呼び出すなんて、一体何の用?」


取り落としたスマートフォンをゆっくりと拾い上げて、スーツの内ポケットにしまう。

会社内の、滅多に使うことがなく今や資料置き場と化している小さな会議室。普段は誰も近寄らないこの場所に、呼び出した相手。


「梨紗」


かつて恋人だった女――菅原梨紗。

最も、彼女が本当に俺のことを恋人だと思っていたかは不明だが。


「結構噂になっているみたいだからもう知っていると思うけど、私、結婚するの」


手入れの行き届いた栗色の髪の毛を後ろの方に払い除けて、梨紗は唇を歪めた。

確かに表情は笑っているはずなのに、どこか寂しげで冷たい。付き合っていた頃の少女のような微笑みの面影はもう、どこにもない。


< 57 / 121 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop