ハニートラップにご用心

忘れるはずもない。あれは一年前の今ぐらいの時期だった。


営業部の事務員、俺のビジネスパートナーでもあった菅原梨紗が本部組織である総務部の事務へと人事異動になって半年ほどが経った。
冷たいようだが本来事務員は事務員でしかなく、一度配属が決まれば異動になることは無いに等しい。

それなのに、彼女は本部に引き抜かれた。優秀な社員と評判だったから、その辞令は妥当だったのかもしれないが。


部署が異動になってから当然職場で顔を合わせる機会も少なくなった。仕事が忙しいのか、連絡を取り合うことも一週間に二、三度あれば多い方だった。

頻繁に連絡を取り合わなければ気が済まないだとか、もっと会いたいなどと思うほど恋愛に熱心なわけではないがここまで関係が遠ざかれば多少なりとも不安にもなる。

異動になり会う機会が減るだろうことを予想し、いつでも遊びに来ていいと梨紗に渡した合鍵も一度も役割を果たしていない。それが始めて使われた時は、同時に二度と使われることのない鉄くずに変わる時でもあった。


「恭也は私のこと、知らなすぎるよ」


合鍵を渡して初めて家を訪ねてきた梨紗は、部屋に上がりリビングに足を踏み入れた。ソファに座るよう促しても彼女は静かに首を横に振り――静かに先のセリフを吐いたのだ。


「……どういう意味だ?」

「今日はお別れを言いに来たの」


そう言って、梨紗は薬指につけていたハートの形のペアリングを静かに取り外した。俺の薬指にもついている、同じデザインのものだった。

彼女が合鍵と一緒にペアリングをテーブルに置いたのを見ても、俺はまるで夢の世界にいるようなふわふわとした感覚に襲われていて、何かを感じることもできない。


「いずれ知ることになると思うから、教えてあげる」


梨紗はそう言って、少しだけ悲しそうな顔をしたかと思えばすぐに口元を歪めて笑った。


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