ハニートラップにご用心
「私、新しい恋人ができたの」
「……だから、俺と別れる?」
「違う」
梨紗はテーブルに置いた合鍵とペアリングを指先で弄ぶように弾き飛ばして、テーブルに向けていた視線を俺に戻した。
「要らなくなったから捨てるの」
俺の知る彼女は、聡明で美しく誰にでも優しい菅原梨紗という人間だった。
だがそれは、同時に周囲の評価によってそう塗り固められ、作り上げられたイメージの固まりでしかない。
――俺は、彼女の本当のことなど、何も知らない。
「若手の中で一番の出世頭だって聞くから付き合ってたけど、もう要らない。だって……」
「専務に気に入られたから?」
恐らく彼女が言おうとしていたセリフを被せるようにして口にすると、彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた。それからあっけらかんと、何でもないように続けた。
「知っていたの?」
営業という仕事はコミュニケーションを基盤としている。日頃から職場内、職場外と色々な人間と接する機会が多い。噂話などはすぐに耳に入ってくる。特に内部の者であれば。
「それなら話は早いわよね、別れてくれる?」
梨紗の本性や俺に近付いた目的を知ったのはつい最近、彼女が異動してすぐのことだった。
玉の輿を狙うためにこの一流商社の営業事務に就いたということ。ほとんど接点のない上層部の人間をいきなり狙うのは難しいと判断したのか、比較的取り入りやすい若手の商社マンに手をつけて回り、出来るだけ爪痕を残さないように綺麗にしていたようだ。
しかし何とも詰めが甘いというべきか、営業部署のいるうちは彼女の毒牙にかかった者達は仕事に支障を来たしたくないと、何をされようと黙っていたようだ。
しかし彼女が上層部の人間に何とか取り入ることができ異動が決定。そこが彼女の計算の稚拙さだった。彼女が不在となった今、彼女のしてきたことの全てが露呈し俺の耳にも入ってきた。
怒りの声、俺の身を案じる声、様々だった。
――そこまで知っていて、今まで何もしなかった。
何も言わなければ、知らないふりをしていれば何も失うことはないと思い込んでいたから。
「……言われなくても」
薬指にはまっている指先を乱雑に抜き取り、投げ捨てるようにテーブルに置く。悲しみも怒りもなく、ただそこにあるのは虚無感だけだった。