宵の朔に-主さまの気まぐれ-
凶姫の掌の傷…大きく切り裂かれていてかなり痛いはずなのに、それについては本人は全く言及しなかった。


…身体の傷よりも心の傷が大きいということか。


「主さま…あ、寝ちゃったのか」


「静かにな。…見ろ。全身傷だらけだ」


眠っている凶姫の手足、首、頬――至るところに傷が走り、いかに抵抗し、いかに蔑ろにされたかが如実に分かり、雪男は眉をひそめて朔の隣に座った。


「…外道だな」


「そうだ、俺たちが想像しうることのできない仕打ちを受けた。矜持も踏みにじられ、孤軍奮闘で戦う他なかった。…こんなこと、許されない」


朔の横顔は刃物のように鋭く、誰もが恍惚となる美貌は月のように冷たく見えて雪男は密かに背筋を震わせた。


「“渡り”がどこに向かったか情報を集めさせてるからもうちょっと待ってくれ。あとふたりの部屋を準備したから後で案内……なんだよ」


「いや、お前は相変わらず気が利くな。俺は…“渡り”を殺すことばかり考えてた」


――朔が切れたら結構な確率で大ごとになる。

より強い血統を受け継いだのか潜在能力は計り知れず、殺すと明言したからには必ずやってのけるだろう。

雪男がいつもと同じ冷静でいるのを見て冷静さを欠いていたことに自身で気付いた朔は、凶姫を抱き上げて雪男が用意してくれた部屋に向かいながらそれを謝罪した。


「ごめん、ちょっと頭に血が上りすぎた」


「いいや、これは怒って当然のことだからな。ただ先走るなよ。その時は俺が全力が立ちはだかってやる」


「そうだな、そうしてくれ。ああ、柚葉が戻ってきたらとりあえず凶姫の掌の傷を最優先で治療してやってほしいと伝えてくれ。俺はお祖父様に文を出して薬を届けてもらえるように頼む」


やることが沢山ある。

“渡り”に好き勝手はさせない。

もうこれ以上は、絶対に。
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