アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


「…もう二度と会えないくらい、遠くに行くのと…死んでしまうことって。同じことだと、思ってた。お母さんが死んだ時。あたしはそれを上手く受け入れられなくて、それで勝手にお母さんの持ち物を棺の中から奪って、縋って…お母さんはただ、どこか遠い場所に居るだけで…いつか、また。会えるんだと、そう思おうとしていた。幼かった…まだ5歳の子どもだった」

 突然だった。
 失うのが。
 それでもお母さんは、生きていた時でさえ、たまにしか会えなくて、その存在はあまりに遠くて。
 まだ5歳だったあたしは、実感すら湧かなかった。
 だけどただ漠然と、あとどれくらいしたら、会えるんだろうと。
 その答えばかりを探していた。

 だから、あたしは。
 勝手に自らの世界に閉じ込めた。
 お母さんの少ない記憶と虚像。
 幼かったあたしの、愚かで脆い小さな箱庭の世界。

「あたしは、お母さんを殺せなくて。死んだことを受け容れられなくて。だけど周りはどんどん、変わっていく。進んでいく。あたしひとりを置いて。あたしは自分で自分を守る為に、周りみんなを悪者にして、そうして虚勢で生きてきたの。弱くて、ずるくて…あたし、自分が。嫌いだった。大嫌いだった」

 ぐ、っと。思わず拳に力が篭る。
 そんなあたしの卑怯に握った拳を、七瀬の手は包んでくれる。

 振り上げた拳は必ず誰かを傷つける。
 他人か自分か、それだけの違いだ。
 だけど行き場のない思いが拳を握らせる。
 それすら奪われたらきっと、人は生きてはいけないのかもしれない。

 傷つけていることくらい、解っていた。
 だけどひとりではどうすることもできなかった。

 あの世界が教えてくれた。
 結局あたしは自分が一番大事だった。
 それだけの人間だった。

 ――彼に出会うまでは。
 
「…“さよなら”を、言わなくちゃダメだったの。ちゃんとお別れをしなくちゃ、あたしはきっとまた、前に進めなくなる。だから行かせて、七瀬」

 すべてを持っていくことはできない。
 選んだ先に未来がある。
 未来の為の、選択だ。

「…俺は…待っていても良い…?」

 まるで迷子の子どものようにひどく細い声で、七瀬が縋るようにそれを訊いた。
 あたしはただ、微笑みだけを返す。
 確かなことは何も言えない。
 果たせない約束は残酷な楔になるだけ。

 さんざん心配ばかりかけて、都合よく七瀬の気持ちを利用しとうよしているあたしのことなんて、見放してくれて良い。
 そう思うのに。
 それができないからこんなにも苦しいことくらい分かっていた。

「だめ。七瀬は…待たないで。七瀬はきっとあたしを殺せない。だけどあたしは、七瀬の傍には居られない」

 初めて人を、心から拒絶した。
 この手を振り払う為に。自分の意思を通す為に。
 真っ直ぐな七瀬のその瞳が陰る。
 哀しみで光りが失われていくように。
 ぐ、っと一度だけあたしの拳を握っていた手に力が篭り、それからゆっくりと、抜けていくのがわかった。

 静かにあたしは席を立つ。
 俯く七瀬を置いて。
 僅かに距離をとった場所に居た加南たちが、会話が終わったのかと視線を向けるも、あたしと七瀬の間に流れる異様な空気を素早く感じ取り、「真魚」と声をかけたのは早帆だった。
 いつも弾けるように笑う早帆の、珍しいくらいに真剣な顔。
 早帆もうっすらと何かを感じていたのかもしれない。
 まっすぐな視線があたしに突き刺さる。

「…よく、分かんなけど…夏休み、うちらと遊べるんだよね?」

 少しだけ慎重に、言葉を選ぶ素振りが珍しい。
 ちらりと早帆その視線が七瀬を見やり、すぐにあたしに戻ってくる。
 あたしは笑って答えた。
 ちゃんときっと、笑えていた。

 最後にみんなの顔をしっかりと目に焼き付ける。
 俯く七瀬の顔は、さっきので充分。
 胸が痛むくらいで良い。
 それが自分が選んだ道。

「――うん、忘れものを取ってくるだけ。今度はあたしが、先に行って待ってるから」

 先生が来るより先に教室を出る。
 その長い廊下の先にリュウが居た。
 あたしの姿を確認して、見計らうように歩き出す。あたしも早足でその背中を追った。

 ずっと無意識に握っていた、拳の中の貴石(いし)が熱い。
 あたしの熱か。それとも呼応する誰かの心か。
 迷いはない。
 前だけを見ていつの間にか走り出していた。


 自分より大切な人ができた。
 だからあたしは行く。
 その人のもとへ。
 そしてちゃんとお別れをする。
 今度こそ。

 ――生きているから、それができる。
 それが今のあたしの、心からの望み。

 きっとあたしはかつての“伝承の少女”のように、国や世界を救うような、救世主になんかはなれないだろう。
 あたしはただ。

 ただひとりと、そのひとの生きる場所を護りたい。
 自分よりも誰よりも世界よりも。
 大切で、大事で、何よりも守りたくて、そして幸せになってほしくて。
 ただ生きて、倖せになってくれればそれで良いと思えるひと。
 そこにあたしが居なくても良い。
 それであなたを泣かせても。

 心は、置いていく。
 あなたの傍に。





 ――シアが、好きだ。


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