アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


「…エリオナスが戻ってきたようだ」

 窓の外の異様さに目を細めながら、シエルがやはり表情を変えずに呟いた。

 一番はじめの要求以来姿を見せなかった海の王が、再び絶望を連れ戻ってきた。
 それはつまり、猶予の時は過ぎたということなのか。

「リュウは間に合うかな。世界を隔てる“ずれ”が、厄介なところだけれど…」
「戻ってきたようですわよ」

 暗い部屋に、まるで明かりを灯すように返した少女の声。
 部屋の隅の椅子に腰かけこちらの会話には無関心を装いながらも、ずっと会話を聞き逃すことなく耳を傾けていたこの少女こそが、本来ならアズールフェルの代表としてシエルの椅子に居るであろう相手だ。

 アズールフェル・ラ・ミエル・シルビア。
 アズールの唯一人の王女。

 王女にして戦線に立ち、自ら魔力を振るうという噂は自分の耳にもはいっていた。
 そんな彼女は何故か今、シエルにつき従っている。
 ふたりが一緒にいる様子を見て、この少女がシエルを慕っているのは一目瞭然だった。

「そうか。では最後の戦いというこうか」
「私も行きます。貴石を介さない魔力なら、少しは太刀打ちできるかもしれませんわ」
「そうだね、でも。それは今ここで使うものじゃない。きみは待っていなさい。その為にぼくが来たのだから」

 シルビアの加勢をやんわりと、でもはっきりと拒絶し。
 シエルは先の衝撃でテーブルの上で散らばっていた駒のひとつを手にとって、真ん中に置いた。それからその瞳(め)を自分に向ける。
 海の真ん中に王冠がたつ。古く錆びた、だけど金の王冠だった。

「最後の賭けだ、シアン。もしも、生き残れたら――その時はすべてを、棄(す)てなさい。この国も、きみという存在も。ぼくがきみを殺す前に」

 強気だけを含んだ威圧的なその瞳。
 本気になったシエルの、その瞳で見据えられるのは遠い昔以来だった。
 それ以外はいつも、読めない心。
 シエルの考えていることが、おれには分からない。昔から、ずっと。

 まるで賭けになっていない。
 死んだら終わりだし、生き残れたとしてもおれには何も残らない。
 でも、何故だ。
 こんな時に…こんな時だからこそなのか。
 シエルの本当の望みが、わかってしまったのは。

 シエルがどうしてそこまでシェルスフィアに拘るのか。
 その、意味が。

「シエル、おまえは…」
「――エル」

 おれが口を開いたのとほぼ同時に、突如部屋のドアが勢いよく開けられた。
 おれの言葉は遮られ、突然の訪問者に室内の視線が一集する。
 言いかけた言葉を…シエルにそれを確認したいのか、知らないままで居たいのか。
 分からず言葉の続きは喉の奥で消えた。

 扉を開けて現れたのは、マオと共にもとの世界に帰ったはずの、リュウだった。
 扉の向こうには恐怖で顔を蒼くする船員たちと、それからイリヤの姿も見える。
 リュウは不機嫌さを顕わに視線だけで海の向こうの蒼銀色の竜を指し、それからシエルを睨みつけた。

「なんだあれは。あんなの聞いていないぞ」
「おかえり、リュウ。同じタイミングで帰ってくるなんて、きみ達気が合うんじゃないのかい。名称も一緒だし」
「冗談はよせ、エリオナス以外にあんなの相手してたら魔力がいくらあっても保(も)たないぞ」
「やるしかないだろう。セレスとは切れてないだろうね?」
「帰ってきた直後からくっついて離れない。向こうの海との扉が開きっぱなしのようだな。魔力がだだ漏れでセレスの魔力も殆ど戻ってきている」
「トリティアがあちらに戻ってしまったからね。エリオナスに付き従っているんだろう。開いたままの扉が、どう作用するか――」

 海には複数の光の柱がたっている。
 海の神々の顕現(けんげん)の証。
 柱の数だけ、神々がこの世界に干渉してきている証拠だ。

 あの中にはかつてシェルスフィアが従えていた神も居るのだろうか。
 リズやトリティアのように。
 永い間この国に加護をもたらしていたその柱の神々は、いまその報復の為に戻ってきたのか。
 今はすべてに見捨てられ、残ったのは無力な王であるおれひとりだ。

「…シェルスフィアの少年王。シア、とマオは呼んでいたか」

 突然向けられたリュウの視線と言葉に、傍でリシュカが怒りに震えるのを制しながら、体勢を整える。
 恰好の着かない有様だが、もはやそうも言ってはいられない。
 視線だけで応えるおれに、リュウはずかずかと距離を縮め近寄ってきた。
 それから手に持っていたものを、自分に差し出す。

「途中でマオとはぐれた。これで、繋がるまで呼びかけ続けろ。マオを呼べるのは、おまえしかいないんだろう」
「…なんだと?」
「マオは望んでここに来る。おまえが望んでいなくとも。苦情は直接言え。おれは自分の役目は果たした」

 言って、押し付けられる得体の知れない物体。
 慌ててイリヤが駆け寄ってきて、使用方法をたどたどしく伝えた。
 わけも分らずそれに従いながら、改めて窓の外の光景を、視界の端に僅かに映す。

 いま世界が壊れようとしている。
 終わりを迎えようとしている。

 そんな場所に、マオが。
 マオが、ここに来る。

 自ら望んでまた、この世界に。

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