雨の降る世界で私が愛したのは


「マニュアルをもう一部もらえますか?今日一人休んでいるスタッフがいるもので」

 一凛が差し出すと彼女はそれを受け取り頭を九十度下げておじぎをし勢いよく顔をあげた。

「わたし一凛先生に憧れて動物園に就職したんです。お会いできて本当に光栄です」

 一凛はありがとう、と社交用の笑顔を返す。

 前に餃子屋で会った女子大生やこの彼女のように一凛は街でよく声をかけられた。

 嬉しい反面、自分はそんなふうにキラキラした目で見られるようなたいそうな人間ではないと恐縮し、どうしても表面的な対応になってしまう。

 正直先生と呼ばれることにも抵抗がある。

 最初はいちいち先生と呼ばないでくださいと諭していたが、それでも相変らず相手が先生と呼び続けるので、最後は一凛が根負けしたようなかたちになり、好きに呼ばせている。

 興奮気味の彼女に失望させない程度の受け答えをする。

 最後に一凛はそっと彼女の肩に手を乗せた。

「ハルをよろしくね」

 その言葉だけは本心だった。

 短いその言葉は祈りにも近かった。



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