雨の降る世界で私が愛したのは


 まさか。

 通行止めになった先にハルが待つアパートがあった。

 まさか、まさか。

 よろけるように前に出た足がもつれそうになる。

 その時は逃げろ!

 ハルの声が降ってきた。

 いや、そんなの。

 一凛は聞き分けのない子どものように首を横に振った。

 逃げろ!

 ハルの血走った目が一凛を睨みつける。

 その目が麻酔銃で撃たれたオランウータンの目と重なる。

 大きく開かれた赤い口から悲痛な叫び声があがる。

 一凛は両耳を塞いだ。

 地面にくず野菜が散らばり、おにぎりが水溜りの中に転がる。

 逃げろ一凛!

 一凛はサイレンに背を向け走りだした。

 ハルの元へ走りたかった。

 自分だけ逃げたくなどなかった。

 引き裂かれそうになる心をその場に置いて一凛は無我夢中で走った。

 途中からどこを走っているのか分からなくなったがそれでも走り続けた。

 サイレンの音が聞こえなくなっても走り続けた。


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