妄想は甘くない

時刻はまだ21時を回ったところ。
いつの間にか繋がれた手に引かれながら、会話もなく付いて歩いている。
繁華街を離れ十数分程なのに、辺りの景色は随分と落ち着いた街並みへと変化して来ていた。
裏通りの一角にあるマンションへ入って行く。

鍵を開けると、中へ入るよう目で促した。
玄関に足を踏み入れながらも、大神さんの住む部屋を目の当たりにすると、急に周囲の空気が現実味を帯びたようで怯んだ。
すぐにふわりと爽やかな香りが鼻腔を擽る。
近寄った一瞬に微かに漂っていた香りの正体は、この部屋の匂いだと思い至った。
香水かと思い込んでいたが、ディフューザーでも据えてあるのだろうか。

細い廊下の奥にソファとラグが配置されており、間取りは1DKかと思われた。
どうして良いかわからず立ち尽くしていると、肩に手が置かれ身体がぴくりと反応する。
そのままソファに座らされ、続けて彼が隣に腰を下ろすとスプリングが弾んだ。

カーテンの隙間から薄らと月明かりが差し込むだけの暗闇の中で、覚悟を決めて息を呑む。
太腿の側で強ばらせた右手に、レストランでそうしたように再度左手が重ねられた。
しかし暫し姿勢は変えられることなく、前方を見つめているらしい隣の人に倣うように、顔は合わせずに自分の膝を見つめていた。

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