鬼の生き様


 半年ほどしてまた歴史的な事件が起きる。
文久二年(1862年)一月十五日に、江戸城坂下門外(さかしたもんがい)にて、尊攘派の水戸浪士六人が陸奥国の磐城平(いわきたいら)藩の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた事件が起きたのだ。

俗にいう坂下門外の変である。


 ことの発端は桜田門外の変で大老、井伊直弼が暗殺された後、老中・久世広周(くぜ ひろちか)と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため幕府と朝廷が手を結ぶ、公武合体を推進した。

この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激したのだ。

 さかのぼること、万延元年(1860年)月。
水戸藩の西丸帯刀(さいまるたてわき)、野村彝之介(のむらつねのすけ)、住谷寅之介らと、長州藩の桂小五郎、松島剛蔵らは連帯して行動することを約し、これに基づき信正暗殺や横浜での外国人襲撃が計画されたのである。

 しかし、長州藩内では長井雅楽(ながい うた)の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。

長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。

 水戸の志士らは宇都宮の儒学者、大橋訥庵(おおはし とつあん)一派と連携して、信正の暗殺計画を進めた。

 当初は十二月十五日に決行する予定であったが、一月十五日、上元の嘉例の式日で諸大名が総登城し将軍に拝謁することになっていたため、その折を狙うこととなった。

しかし、決行直前の三日前に計画の一部が露見し、大橋ら宇都宮側の参加者が幕府に捕縛されてしまったのである。
そのため計画は大きく狂ってしまったのだが、水戸志士を中心とした残りの者たちだけで実行することになった。

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