鬼の生き様

「実はな…」

 広沢はゆっくりと話し始めた。
有栖川宮(ありすがわのみや)家に、連絡も無しに芹沢が突然訪れたのだという。

 有栖川宮熾仁(たるひと)は、嘉永四年(1851年)、十七歳の時に孝明天皇の妹・和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)と婚約した人物である。

しかし九年後の万延元年(1860年)。
大老・井伊直弼らが進める公武合体の象徴として、和宮が将軍、徳川家茂に嫁ぐことが決まり、和宮との婚約は解消されてしまった。

 その間にも若き熾仁親王は、安政五年(1858年)。
幕府の対外条約勅許に反対して公卿、殿上人(てんじょうびと)が猛抗議を加え〝廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)〟に呼応して、単独で外交拒絶、条約批准不可などの建白書を朝廷に提出するなど、反幕の姿勢は明らかであった。

廷臣八十八卿列参事件は、安政五年(1858年)に日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦(ほったまさよし)が参内することとなった。

しかし安政五年三月十二日。
関白の九条尚忠(くじょうひさただ)が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視(いわくらともみ)や中山忠能(なかやまただやす)ら合計八十八名の堂上公家が条約案の撤回を求めて、まさかの抗議の座り込みを行ったのである。

許嫁の和宮を徳川家茂に奪われた怒りは終生収まらずに、公家社会において三条実美とならび過激攘夷派の思想へと転じていった。

そんな熾仁親王に芹沢は拝謁をしたという。

初耳であったが、水戸の浪士で、水戸学の影響により尊皇攘夷の思想は誰よりも強いのは周知の事実だ。

「今やお前達は我々会津藩の預りだ。
これは由々しき問題であるぞ」

広沢の言う通りである。
会津藩への裏切り行為ともとれる芹沢の行動に、一同は何も言えずに口をぽかんと開いた。

「もはや会津藩も芹沢の行動には以前より目が余るものがあった。
真価が問われる時だぞ近藤」


──芹沢鴨を斬れ。


そうは言わずしても、言葉の裏では広沢はたしかにそう言っていた。


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