鬼の生き様

剣の才


 嘉永五年(1852年)
━━江戸市谷甲良屋敷、天然理心流試衛館道場。

 しっかりと剣を学びたいと市谷甲良屋敷にある天然理心流に仮入門をした歳三は、稽古に熱心に取り組んでいた。

甲良屋敷とはいっても、屋敷ではなく以前に幕府の作地方棟梁をつとめた甲良家の拝領屋敷があったことから名がついた町名である。

 天然理心流は、形稽古よりも撃剣での稽古が多く、歳三は才覚があったのかみるみる腕を上げていった。


 天然理心流は二代目の近藤三助も、三代目の周助も多摩郡の出身だったので、多摩地方に多くの門人がおり、彦五郎もまた染っ火事で、佐藤家から道を隔てた一軒の農家から火災が発生し強い北風に煽られて佐藤家をはじめ十数軒が類焼するということがあった。

この火事の最中、一人の狂人のため名主の彦五郎を狙った白刃が母のマサに向かい斬殺されるという惨い事件が起こった。

この事件を契機として彦五郎は、内外の攘夷の風潮やまた寄場名主としての村の治安維持防衛の必要を感じるようになる。
 翌年、八王子千人同心、日野の千人組頭の石坂弥次右衛門の世話役、井上松五郎に依頼し、時々日野宿へ訪れる天然理心流三代目の近藤周助へ入門したのだ。

 江戸には三大道場といわれる有名な道場がある。
千葉周作の北辰一刀流、桃井春蔵の鏡新明智流、斎藤弥九郎の神道無念流だ。

『位は桃井、技は千葉、力は斎藤』
と称えらていた。

一方の天然理心流の開祖でもある近藤内蔵助も江戸で道場を開いていたが、無名であり、多摩など近隣の農民たちに門弟が多いためか「田舎剣法」「芋道場」と呼ばれていた。

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