柚子の香りは手作りの


彼の名前を、残しておくためにも。


どうしてこんなに弱気になっているのか、自分でもよく分からない。でも、恋する乙女は繊細なのだ。以前友達が言っていた言葉を思い出しながら、自分で自分を納得させる。今日になっても連絡がまだ来なくて、心細くなってしまうのは当たり前だ、と。だから弱気になったっていいじゃない、と。


私の中に彼の存在を残しておきたいのだ。まだまだ、彼の存在を憶えていたいのだ。


別に彼が死んだ、とかではない、……はずだけれど。うん、ないはずだ。だったら多分、彼の友達から連絡が来たっておかしくはないし、私との連絡を消しているわけではないのだから、誰かしら気付いてくれる、と思う。


考えるの、やめよう、と頭を振って、出来上がったばかりの練り香水を手首につける。ふわり、と香る柚子の匂いは、否が応でも彼を思い出させてくれる。それでいい、と自分を納得させると、私は部屋着に着替えて布団の中に潜り込んだ。


約束の六時までには大分時間がある。元々四限目まで講義がある予定で考えていた時間なのだから当たり前なのだが。昨日散々考えていたせいで眠れていなかったツケが、ここに来て回ってきている。眠気を堪えながらなんとかアラームをセットすると、私はすぐに眠りに落ちた。





一時間ちょっとしか眠れなかったが、少しは眠気も取れたらしい。


どちらかというと緊張が勝ってきて眠気が吹き飛んだ感じがする、と思いながら着替えると、簡単に化粧をして家を出た。


すっかり冷たくなった風は、容赦なく無防備な顔や手から体温を奪って去っていく。吹き付ける風の冷たさに身を縮めると、寒い、と小さく呟いた。くるくると首に巻いたマフラーに顔を埋めながら駅までの道を歩く。どうしても重くなる足取りに自分でも苦く笑いながら、私はそっと空を眺めた。


駅までは歩いて十分程。待ち合わせの六時に間に合うように、余裕を持って出て来たから現在時刻は五時半過ぎ。暗くなった空は薄くかかった雲で星が隠されている。真ん丸とは言い難い月が雲の隙間から見え隠れしていて、なんとなしに夏目漱石の言葉を思い出した。


意味なんて通じなくたっていいから、一回くらい言ってみたいと思うのは私だけだろうか。愛してる、なんて、直接言葉にするのはまだ怖くて、早いかな、なんて思って怖気づいてしまうから。月が綺麗ですね、くらいなら言えると思っていた。


結局、それすらも口にすることはできないまま。彼は相変わらず私の前には姿を現してはくれないのだけれど。


< 3 / 6 >

この作品をシェア

pagetop