生贄姫は隣国の死神王子と送る平穏な毎日を所望する

112.生贄姫は旦那さまに反旗を翻す。

 離婚前夜。
 アルカナで過ごす最後の夜にリーリエは月を見上げる。
 今夜は満月で、非常に動きやすかった。
 別邸まで送ってくれたノアにお礼を告げて別れたリーリエは静かに目的地に向かう。
 離婚が決まって以降まさか全くテオドールが本邸に顔を出さなくなるとは思わなかった。
 薄情者っと口内で不満を転がしながら、リーリエは静かにテオドールの自室のドアをノックした。
 人の気配はするのになかなか出てこない夫に呆れたようにため息をついて、リーリエは廊下の窓枠にもたれかかって空を仰ぐ。

「今夜は月が、キレイですね」

 つぶやくように囁いたそれに応える声はなく、リーリエはただただそのまま夜の空を眺め続けた。
 どれくらいそこで立ち尽くしていただろう。
 指先がかじかんできて、もう一枚くらい上着を持ってくるべきだったかとリーリエが後悔し始めた頃にようやくドアが開いた。

「……いつまで、そこにいる気なんだ」

「逆にお伺いしますが、いつまで待たせるおつもりで?」

 久しぶりに見た最愛の夫の困ったようなその顔に、リーリエはクスリと笑ってそう言った。

「すっかり体が冷えてしまったじゃないですか」

 やや非難めいた口調でわざとらしくため息をついて見せたリーリエは、

「最後の夜だというのに、つれないですね。旦那さまは」

 鈴が鳴るような声で優しくそう言った。
 最後、とリーリエが口にした言葉にテオドールは目を伏せる。
 リーリエとの離縁は自分で選んだことだ。
 それでも残りの時間をどう過ごすのが正解なのか分からず、リーリエの顔を見れば後悔と未練だけが募っていきそうで、向き合うことから逃げてしまった。
 そんなテオドールを見ながら、リーリエは初めてこの別邸に乗り込んできたときのことを思い浮かべて言葉を紡ぐ。

「離縁が決まって今日で7日です。私、これでも毎日待っていたんですよ? いつ旦那さまが来てくださるのかなって」

 聞き覚えのあるセリフに息をのんで、テオドールはリーリエの方を見る。
 彼女はこの時期にしては随分薄着でその肩はわずかに震えていて、テオドールは慌てて上着をかけてやる。

「私は、まだ旦那さまの口から何の説明も受けておりませんが、このまま国に帰れとおっしゃるのですか?」

「リィ、俺は」

 じっと見上げてくる翡翠色の瞳を見て、テオドールは言葉を紡げなくなる。
 
 手放したくない。
 
 居なくなって欲しくない。

 縋るような言葉ばかりが浮かんできて、そしてこの選択をした自分にそれらを口にする資格がないのだと分かっているテオドールは言葉を失くす。
 ルイスにはああ言ったが、本当は離れても大丈夫だなんて言えるほどの自信もなかった。
 リーリエなら言葉にしなくても察してくれるだろうなんて、この期に及んで彼女に甘えていたのだという事実に気づき、テオドールは自分に呆れる。

「まぁ、表情から察するに、いろいろ反省してくださっているようなので言及はしません。でもね、旦那さま。私、今、結構怒っていますからね」

 何なら激怒していますとそう宣言するリーリエは、テオドールの額を軽く小突く。

「私がここに何しに来たと思います? わざわざ甘い言葉の一つでも囁きに来たとでも? 今から離婚する相手に?」

 呆れたように肩をすくめたリーリエはびしっと指を立て、諭すように話す。

「いいですか、旦那さま。家族といえど報連相は基本です。特に離婚、なんて二人の今後に関わる重要なことを、覆らない状態で持ってくるなんて普通ありえませんからね!」

 自分がしたこと理解しています? と仁王立ちで盛大に文句を言うリーリエは、テオドールが好きないつも通りの彼女で。

「俺が悪かった。ホント、ごめん。ごめんな、リィ」

 テオドールはそんなリーリエを優しく抱きしめて、何度もごめんと謝った。
 そんなテオドールを抱きしめ返して、

「仕方ないですね。許してあげます。妻なので」

 とリーリエは優しく笑った。
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