本日、結婚いたしましたが、偽装です。


「ティッシュ、要るならそこのを使えよ」

課長は車を走らせながら、ダッシュボードの上にあるボックスティッシュの方に顎をしゃくった。

「あ、は…い」


私はボックスティッシュから数枚抜き取ると、涙の塩分で敏感になっている目元を優しく指先でとんとんしながら拭う。


「あの…」


声帯に痰と鼻水が絡まりガラガラの嗄れた声でおずおずと話し掛ける。


「なんだ」


「一応、どこに向かっているのか、とか、聞いてもいいですか?」


業務命令と言われても、上司から明確な命令内容を教えて貰えないと業務を遂行できない…。

仕事は終わっているはずなのに、課長からプライベートの時間で業務命令として車でどこに行かせられるの…?


そう行き先を訊いてみると、課長は何も言わずにただ、アクセルを踏み込んでいた。


何も訊くなって、こと…?



そして課長の車に揺られて20分くらい経った頃、業務命令として連行される場所に到着したのか、とある建物の中に車は入っていった。


窓から眺めると、その建物は周りの建築物より際立って天に届いているんじゃないかくらいの高さがあった。

威圧感を出してそびえ立つ建物に私は驚きと圧倒で、泣き腫らした目を見張る。


異常なくらい超高層な建物だな……。


所々に埋め込められているように配置されている窓からちらほらと明かりが見えるから、もしかしなくても、…タワーマンション?


そう分かってすぐに、車は坂を下りて薄暗い地下駐車場に入っていったので、タワーマンションは見えなくなった。


どうしてタワーマンションに、来たのかな?


運転中ずっと無言のまま、いつもと雰囲気が色々と違う課長は数台ある駐車スペースの一つに車をスマートに車庫入れをした。


「あの、課長、ここは?」


涙を止めてまだ時間が経っていない私はズビズビと鼻声で、シートベルトを外した課長にそう訊く。


「あ?俺ん家だけど」


課長は真顔で私を見ながら、さらりとそう言った。


えっ⁈、とは、声に出せないほどの驚愕。


「佐藤、なんだよ、その間抜け面は」


課長はくっくっと、まるで面白がっているように笑いながら、私の顔を見ている。

えっ、何この課長の笑み……。

私、こんなに笑っている課長、一度も、入社して、課長の直属の部下になってから一っ度も、見たことないんですが。

タワーマンションの次に、猫が二本立ちの姿勢になるくらい珍しい(←おいおい、なんじゃそりゃ、猫と一緒にすんのかい)課長の爽やかな笑顔に見入った。


なんか、キラキラ〜って効果音が入りそう…。

あ、八重歯…、大発見っていうのか、あるなんて全然知らなかった。



「お前、ちょっと鏡見てみろよ。顔芸みてーな面してんぞ」


抱腹絶倒な課長にそう言われて、ドアミラーを見ると、ぽんっと目玉が飛び出て、口はだらしなく開けて豆鉄砲を食らったハトみたいなマヌケた顔をしていた。

な、なんじゃ今の顔はっ!


目、充血してるから余計に鳩に見える!


あんな顔をずっと上司である課長に見せ、見られていたなんて、もう…嫌だ…。


私は泣き面から間抜け面という一番見られて欲しくない顔を見られた羞恥を隠すように、課長から顔を背ける。


そりゃあ課長が、こんな見る限り高級そうなタワーマンションに住んでるなんて、顎外れるくらいの驚愕で間抜けヅラにもなるし、会社では鬼の課長でいつ何時でも冷徹な表情を崩さないと有名で、私ですら課長の表情筋はガチガチで笑顔になる機能が欠陥して絶対に笑わないっしょなんて、失礼極まりない事を思っていたのに、不意打ちに、レアな笑顔という豆鉄砲食らったら馬鹿面にもなる。


泣き面間抜け面ときて、馬鹿面まで…。


ああもう嫌だよーっ!別のことで、泣き出したくなる…。


「やっべ、佐藤のあの顔、ツボるな」


やっべ…ってなんですか、やっべって。


それに、ツボるって…、ちと失礼じゃありません…?



それから数分後、気の済むまで笑った課長はやっと落ち着きを取り戻したのか、深呼吸を一つすると息を整えた。


「はあ〜っ…、久々に大笑いした。佐藤のあの顔芸だけで腹よじれて痛いのなんのってな」


久々に課長を即興“顔芸”で笑わす事が出来て、嬉しいとも嫌だともどちらにも似付かない複雑な気持ちになる。


「そろそろ、行くか。お前も泣き止んだことだしな」


行くか…? 一体どこに…?


課長は前触れも無く唐突にドアを開け、外に出ると、前から回って助手席側に来た。


ドアを開けられると、冷たい風が車内に入って来て、ヒーターであったまっていた身体に冷気が突き刺さる。


「おい、出ろ」


私を見下ろしている課長はドアを抑えたまま、不意にいつもみたく声音に棘を生やして命令口調で言った。


出ろと言われても、車から降りてから私はどうすれば?


私は、何の予言も無く強制的に課長の家に連れて来られ、変顔で笑われて、驚愕と困惑に思考が支配されていてすぐには降りれなかった。


訳が分からない、何故?


何故、急に私をタワマンで課長の家に連れて来たの?


やっぱり食事の誘いを断ったから…?


「早く」


課長は躊躇させる暇なんて与えないような、先ほどより鋭い口調で急かした。

なんか、ついさっきまでの課長とは、違う。


今のも業務命令なら、色々と今後のことを考えて部下として素直に従った方が良い…よね。



会社の時と同じような上司特有の威圧感を感じて、私は先程の笑顔の課長からいつもと同じような課長に戻ったことに心の中で小首を傾げた。


「二度、同じことを言わせる気か?耳、聞こえているよな?」

っ!い、いつもの、会社で仕事中の時の課長だっ…!


「は、はい…!今、降ります」


命令に従い、助手席から俊敏に動いて外に出る。

ハンドバッグを持ってから車のドアを閉めると、私から一歩前に立つ課長は、口角を上げてにやりとした。


どうして、今日は急に雰囲気から性格まで、ころころ変わっているの?…課長…?


後部座席から課長のビジネスバッグを降ろしてから、課長が持っているキーのリモコンボタンでウィンカーが点滅を数回繰り返して施錠する。


課長は、私より少し前に離れて歩き出し、私はそんな課長の後姿を追うようについていき、灰色のコンクリートの壁とその天井には無味乾燥な蛍光灯が並ぶ地下駐車場を歩いていく。


課長は、何も言わないけど、今から私は課長の家に向かっているんだよね…。


なんなんだろう、この状況。



黙って俺についてこい、と雰囲気と背中で命令する課長と歩きながら、そわそわと辺りを見回して、曖昧に視線を彷徨わせた。


あの、鬼の課長の家に行くなんて初めてで
これから何が起きるのか全く見当が付かない。


漠然とした不安と緊張が私を駆け巡る。


超高層のタワマンに近づき、課長が外に設置してある数字のボタンを押して暗証番号を入力すると薄いガラスの自動ドアが反応して、静かに開く。


そして、そのまま課長についていくと立派なエントランスに足を踏み入れた。



「そうだ、佐藤。高い場所は平気か?」


立派なエントランスに相応しい立派なエレベーターの前でエレベーターを待っていると、課長が沈黙を破り、突然そう言った。


「はぁ、…まあ、一応、平気です」


「そうか。なら、大丈夫だな」



え?私が高いところが平気で、一体何が大丈夫なの?



課長が呟いた言葉に小首を傾げながら、エレベーターに乗ると、課長は長い指で1から最上階とある40までの数字が並ぶボタンのうち、40のボタンを押した。


40、最上階行きとなっていますが、まさか…。


私と課長を乗せたエレベーターは静かに上に打ち上げて、一階一階を過ぎていく。


エレベーターが階数表示を上げていくのに伴い、私の心拍数もドキドキと上昇していった。


上司の家、それも超高層マンションの最上階の部屋にこれから行くなんて、色々と緊張して不安だ…!


1、2、3…39、40、と、目的地の数字が表示されるまでにそう時間はかからなかった。


到着したアナウンスが流れてからエレベーターが静かに開く。

目の前に、やっぱりこのマンションに相応しい重厚感のあるドアが現れた。


課長は、金で縁取られたダークブラウンのドアの鍵穴に、バッグから取り出した鍵を挿し込んで解錠すると、重たそうなドアを開けた。


一歩脇によけて、私に先に入るよう目で促す。


「入れ」



「は、はい。お邪魔します」


私は課長に会釈してから一歩先に踏み出した。


うわぁ…! なんなんだ、この玄関!


床は白で統一されて清潔感があり、すぐ左横にある玄関収納棚は床に合わせて白を基調にされており、高さは低いけど巨大。


玄関の広さは一体どれくらいあるのというくらい私が知る限りの玄関よりも広くて、開放感があった。


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