本日、結婚いたしましたが、偽装です。
“カラダ目的”だったりして……。
……、いや!それは、絶対にありえないから‼︎
「無い無い無い!絶対に無いから!」
自意識過剰もいい加減にしてよ、勘違いも甚だしいでしょ、と、被害妄想が強過ぎる自分を心の中で睨め付けた。
それに、冗談でも、そんなこと思ったら、課長に対して失礼だ。
「何が無いんだ?」
「ひゃう!」
突然、課長の声が聞こえて、驚きのあまり素っ頓狂な声を出した。
びっくりした……。
…ああもう、変な声が出て、恥ずかしい。
部屋でスーツから私服に着替えていたらしい課長は、部屋のドアを閉めて、様子がおかしい私を怪訝そうに見ながら、こっちに近づいて来る。
白の長袖Tシャツに、黒のジョガーパンツという出で立ちの、初めて見る私服姿の課長は、私の隣に腰を下ろした。
「さっき、何が無いって言ってたんだよ?」
そう訊きながら、ずいっと身体を近づけてくる。
ドキッと、心臓が飛び跳ねる音を立てた。
「い、いえ、なんでもありません」
課長の初めて見るとても珍しい私服姿だからなのか、すぐ目の前にある切れ長でとても綺麗な瞳が真っ直ぐと向けられているからなのか、不意に羞恥を感じて直視出来ずに、目を逸らした。
そんなに真っ直ぐと、見つめないでほしい。
流石、全部署の女子社員の間で“鬼頭課長ファンクラブ”があるくらい社内一のモテ男の、整い過ぎるほど端麗の顔は、不覚にも、やはりかっこいいと思ってしまう。
誰よりも仕事が出来る頭脳明晰に加えて、このルックス。
彼氏がいても、彼氏と別れたばかりでも、反射的に、そして衝動的に、意思とは関係無く胸が高鳴って、吸い寄せられるかのように見入ってしまう。
そして、すれ違っただけで好きになってしまうほどの妖艶な魅力が満載の課長に、10秒以上もじっと見つめられたら、不覚にも、恥ずかしくなって、顔を俯かせてしまう。
「ふーん、なんか失くしもんでもしたのかと思ったけど、違うのか」
…課長が私を家に連れて来たのは、“男女のそういう秘め事”目的なんじゃないかと、一瞬だけだけど思ってしまったんです…とは、正直に言えない。
「違います」
顔を俯かせたまま、その一言しか言えなかった。
「そうか…。そういえば、飯まだだったけど、佐藤、腹減ってねーんだよな?」
課長は何かを思いついたように、突然、私に腹具合を確認した。
「はい…空いて、」
『空いてないです』と言おうとしたその時、私の身体は思ってもいなければ、望んでもいない反応をした。
『ぐーきゅるるる』
私のお腹の虫が鳴く声が、静かな部屋に、やけに大きく響く。
なんつうタイミングで、鳴るの?
しかも、音量を盛大にして。
そして、さっきまで本当にどこかに消え失せていたかのように、全く空腹を感じていなかったのに、お腹が鳴ったのを合図に、胃が空っぽで食欲がじわじわと湧いてきた。
お腹が減った…、久しぶりのこの感覚を、課長の前で感じるなんて、恥ずかしい。
それに、泣き顔を見られて、変顔で笑われた挙げ句に、腹の虫の音まで、はっきりと聞かれるなんて。
今日は、恥ずかしいところばかり、曝け出しているような気がする。
表現出来ないくらいの羞恥で、頬から全身を火照らせて、課長の前から去ってどこかに隠れたいと思った。
「腹減ってんじゃねーか」
課長は、ククッと軽く笑いながらそう言った。
「い、一週間くらい前から今まで、減ってなかったんです…けど、急に鳴り出したんです。本当に、減っていなかったんですよ」
蚊の鳴くような小さくて掠れた声で、おずおずと課長に言い訳すると、課長は、微かに目を見開いて眉を歪ませた。
「はあ…⁈ 一週間前から⁈なんで一週間も、腹減らなかったんだよ?」
課長は、信じられないというように驚いた表情をしながら、一週間も空腹を感じなかった理由を訊いた。
それは、ちょうど一週間前に、婚約までした彼氏に、私の大親友と浮気されて別れを告げられましたから、なんて、そう事実を言えない。
「なんでって、まあちょっと色々ありまして」
言葉を濁しながら、歯切れ悪く答える。
課長は、髪をかけ上げて、目を閉じると深く吐息をついた。
「分かった、それ以上は聞かない。けど、一つだけ聞く。もしかしてだが、一週間前から何も口にしてないなんてことはないだろうな?」
課長は、切れ長の瞳に心配する気持ちを映しながら、優しい声音でそう訊く。
私は、課長に的確に図星を突かれて、心臓をどきりとさせながら口を噤んだ。
「おい、佐藤?」
何も言わない私の顔を覗き込む課長の視線から逃れようと目を逸らす。
けれど、課長はそれを制するように、目を逸らしても、追いかけて、覗き込んでくる。
っ!ち、近いんですが、なんか、課長の距離が、いつもよりめっちゃ近いんですが!
「佐藤、本当のことを言え。一週間前から全く食べてないのか、それとも一応食べれているのか、正直に言え」
ここまで、私が一週間前から食事をしているのかしていないのか、課長が気にする必要はないよね?
どうして、こんなに必死な表情で迫るように、本当のことを言わせようとするの?
しばらくしてから、私は、いつもと雰囲気も口調も全く別人の課長の、どこか必死で真剣な眼差しから逃れられず、観念したかのように、口を開いた。
「課長の言う通りです…。一週間前から、ちゃんとしたご飯は食べていません。仕事とかしなきゃいけないと思って、スナック菓子は食べてますけど。でも、ここ二日は、本当に食欲が全然無くて、飲み物しか喉を通らなくて、何も食べていません」