本日、結婚いたしましたが、偽装です。

コートのポケットから、先ほど佐藤に渡せなくて入れたミルクティーの缶を取り出す。


「そうだ、佐藤。少しぬるいが、これで目元温めておけ。泣き腫らした目は温めるのがいいらしい」


どこかの本で読んだのを思い出してそう言いながら、佐藤にそれを差し出す。


「たしか、佐藤はコーヒーよりこっちの方が好きだっただろ」


佐藤は数回瞬きしてから、頭を下げると缶を受け取ろうと手を伸ばした。


「あ、ありがとうございます。頂きます」


佐藤の小さくて細い指を目で追う。


すると俺は次の瞬間、ほとんど衝動的に、ビジネスバッグを肩に掛けていて、開いている方の手で佐藤の手首を掴んだ。


まるで、何にか強い欲求に突き動かされるかのように、俺はその細い手首を掴んでいた。


佐藤が、ぱっと顔を上げる。


俺は、大きく見開かれた瞳を真っ直ぐ見つめた。


予想外の至近距離に佐藤の顔があって、俺はびっくりする。


「な、なんですか…?」


瞬きを繰り返して当惑している佐藤の声で、ハッと我に返った俺は、顔を逸らしてからゆっくりと佐藤の手首を離した。


「ずっと俯いていたから、どんな顔してんのか見ただけだ。ほら、温めろ。多少は腫れてもひどくは腫れないだろ」


俺は自分でも意味が分からない理由を言ってから、佐藤の目元に缶を当てた。


今度こそ、佐藤は缶を受け取る。


……俺、今、何やってんだよ。


急にわけもなく、佐藤の手首を掴むなんて。


気持ち悪いだろ。


さっき頬に触れた時、避けられなかったからって、またすぐに触れるなんて……。


俺が下心ばかりある自分に反省していると、一階に到着したアナウンスが流れてエレベーターが開いた。


気まずい俺は、そそくさと先に降りた。


……本当に俺、何やってんだよ。


だけどでも、佐藤の細い手を見ていたら、暗い顔を見ていたら、無性に抱き締めたいと思ってしまった。


ああでも、ダメだ。


我慢だ、佐藤は俺のこの気持ちなんて知らないし、そもそも嫌われているのだから、これ以上触れてはいけない。


強い欲求を抑えられずにエスカレートしていったら、セクハラになってしまう。


セクハラは、してはダメだ。


たとえ俺が純粋な気持ちで接触しても、佐藤にとって嫌悪するものなら、それはセクハラなのだ。


……ただの会社の上司で、男として見られているけど違う意味だと思うと、そういう相手に簡単に触れてはいけないという高い壁を感じる。


無人で閑散としているロビーを横切りながら、俺は下心は封印して理性を保ち、もう佐藤に触れないと固く決意していた。


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