彼の甘い包囲網
フウ、と深呼吸をした。

重くのしかかる不安や恐怖を吐き出すように。

気が付かない内に滲み出した涙を抑えるために瞬きを繰り返す。


私は何をしているんだろう。

私は何がしたいんだろう。

私は奏多とどうなりたいんだろう。


……帰ろう。


こんな自宅に近い場所で醜態を晒すわけにはいかない。

重くなった足を踏み出して交差点で信号が変わるのを待つ。


何気なく正面を見つめる私の視線に一台の車が映った。

半分程開いた後部座席の窓。

座る端正な顔立ちの男性の横顔。



「……か、なた」



思わず零れた名前。

声が震える。

間違いない。

さっき七海ちゃんに見せてもらった雑誌の写真と同じ秀麗な顔立ち。


ずっと見てきた奏多の姿。

今、まさに考えていた奏多が。

そこにいた。


何をしているの?

どうしてここにいるの?


ねえ、奏多。

……私はここにいる。

あなたを見つめている。



……あなたにはきっと届かないだろうけれど。



瞬きすら忘れて凝視する私は信号が変わったことすら気が付かなかった。

私を追い越して横断歩道を渡っていく人逹。

足を動かすことができなかった。

まるでそこに縫い付けられたように。

ただただ、近くて遠い秀麗な横顔を見つめていた。



フッと奏多が顔を動かした。

一瞬。


目が合いそうになり、反射的に私は俯いた。

人波に紛れる私の姿に。

奏多のように人目をひく容姿ではない私に。

奏多が気付く筈はないけれど。

顔を上げることが出来なかった。



再び信号が変わって。

奏多を乗せた車が走り出す。


「……あ……」


唇から漏れた小さな呟きは周囲の喧騒に掻き消され。

ただ唇を噛み締めてその去り行く車体を見つめた。

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