彼の甘い包囲網
立ち竦む私の前で再び信号が変わった。


今、目にした光景が幻のようで。

小さくかぶりを振る。


一瞬だけ忘れていた筈の涙がジワリと滲み出した。

グイッと乱暴に手で拭って。

横断歩道を渡るため、顔をあげて無理矢理足を踏み出す。



その時。

グッと後ろに身体が傾いだ。


「楓」


空耳だと思った。


「楓」


振り返るのが恐かった。

苛立つように引っ張られた手首。

フワリ、と鼻を掠めるシトラスの香り。

その香りが私の心をグラグラ揺らす。

トン、と私の背中が温かい胸に受けとめられた。


「楓」


頭上から降ってくる甘い声。


「かな……た……」


こんな風に私を呼ぶ人は彼しかいない。

見上げるように見つめる私の瞳に映る奏多の紅茶色の瞳は
不機嫌に細められて。

苛立っているように見えた。



「……奏多?」



もう一度名前を呼ぶと。

クルリ、と身体を回転させられてギュッと強く抱き締められた。

久しぶりに感じる温もり。


「何で声、かけないんだよ……!」


奏多は私の右肩に顔を埋めて呻くように言った。

奏多の小さな吐息が頬を掠めた。

肩から伝わる体温。

拗ねたような声に。

鼓動がバクバクと騒ぎ出す。

胸がキュウッと締め付けられて。

カアアッと頬が熱くなるのがわかる。



肩からの温もりと重みが。

これは夢じゃないと私に教えてくれていた。

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