彼の甘い包囲網
有澤さんが同じ会社だったことは兄に伝えなかった。

正確に言うと兄が残業続きで伝える機会を逃してしまったのだ。

私自身もこのことをそれ程重要視していなかったせいか、思い出した時に話そう、くらいにしか受け止めていなかった。



数日後。

奏多が近々フランスに出張するから会えなくなる、と言われ、出張の日まで会えるだけ会いたいと連日懇願され、定時で帰れる努力をしようと考えていた。


いつものように杏奈さんに仕事を教えてもらい、二人で食堂で昼食を食べていた。


「ここ、いいかしら?」

鈴のような声が上から届いた。

カタン、とテーブルに小鉢とおにぎりが載せられたトレイが置かれた。

見上げると有澤瑠璃さんがいた。

「瑠璃?
珍しいわね、食堂なんて」

かき揚げ蕎麦を食べていた杏奈さんが言った。

「そうかしら?
さっき外出先から戻ってきたところなの。
一緒に食事をいただいていい?」

私をチラリと見ながら瑠璃さんが言った。

一瞬、見え隠れするあの探るような目線。


「あ、どうぞ……」

サッと俯く私に。

「ありがとう」

私の真向かいの椅子を引いて瑠璃さんが座った。

「ねえ、安堂さん。
彼氏はいるの?」

「ゴホッ……!」

いきなりの質問に飲んでいたお茶を噎せた。

「ちょっと瑠璃!
何、急に?
楓ちゃん、大丈夫?」

「だ、大丈夫です。
す、スミマセン」

「あら、だって。
こんなに可愛らしいのよ?
涼だって興味津々で構っているって聞いたわ。
安堂さん、あなた、我社の男性社員に随分人気らしいから。
皆が聞きたがっていることを聞いてあげようかと」

親切そうに笑っているけれど、底冷えのする瞳は何処か恐くて。

私はどう答えようか、逡巡した。


「ねえ、どうなの」

「あ、あの、彼氏はいます……」

「えっ、そうなの?」

瞠目する杏奈さん。

「あ、違うのよ、そうよね。
だって楓ちゃん、こんなに可愛いもの!
彼氏がいて当然だわ……」

ウンウン、と頷く杏奈さんが唯一この場で穏やかな雰囲気をつくってくれていた。
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